見出し画像

目を閉じて見る

そのひとの入り口には万華鏡が置いてあった。持ち手には金と銀と赤を基調とした繊細な千代紙が施され、それはそれはうつくしい。触ったら壊れるかしら。わたしは手を伸ばし、それに触れようとする。待って。触れようとした寸前、わたしの中から声がする。ひとの万華鏡をのぞくものじゃありません。入り口に置いてある万華鏡は、誰のためでもなく自分のためのもの。そのひとが自分の中をのぞきこむときにだけ使うものです。中の声は言った。

けれどもその万華鏡はうつくしく、ほら、触ってごらんよ、このすべすべの持ち手を、と見えない力でわたしを手繰り寄せているようだった。抗えない。わたしはそう思う。そう思ってしまう。おそるおそる手を伸ばすと、まるでシンデレラが件の靴を履いたときみたいに、すっぽりと手に収まるのだった。

だめ、こんなことをしては。これは、そのひとが自分をのぞきこむためだけのものだから。言ったでしょう? わたしはゆっくり手を離し、豪奢な紙に巻かれた筒をそのひとの前に置く。いつの間にか手の温もりは消えている。

足元に目をやると、わたしの入り口にも小さな万華鏡が置いてあるのだった。うすいコスモス色の細い筒。これはあなたのための万華鏡。わたしの中から聞き覚えのあるソプラノの声が聴こえる。

しゃがみこみ筒を両手で包むと、わたしは左眼を閉じ、右眼をぴたりと穴にくっつけた。ひろがっているのは、なんという青。誰もいない海の底に沈んでいるエメラルドみたいな青。夕焼けを浴びた紫陽花みたいな青。ぽってりした厚みの中世の油彩画みたいな青。きみが着ていたジャンパーみたいな青。数えるうちに溶けていくかき氷みたいな青。青とブルーと青とブルーと青とブルーと青とブルーと青。まぶたを閉じたときにだけ見える世界の青。


たまらない。わたしはひととき万華鏡をのぞき、瞳孔さえも青に染まったかもしれないとぶんぶん頭をふり、もう一度のぞく。するとそこには、命のような赤い世界が見えた。校庭で咲きしおれた彼岸花みたいな赤。さくらんぼとりんごとパプリカを混ぜたみたいな赤。投げられたランドセルみたいな赤。真夜中に点滅する信号みたいな赤。赤とレッドと赤とレッドと赤とレッドと赤とレッドと赤。どうしたらいいんだろう。これは命なの?


わたしはひとりごちるように問い、まぶたを閉じる。のぞき口のガラスにまつ毛が触れ、雪の降るような音がした。

ふたたびまぶたを開くと、そこは小さな小さなひかりをたたえた闇だった。誰もいないプラネタリウムみたいな寂しさと、冬のおばあちゃんちの押し入れみたいな安心感が一緒くたにあって、そこでひかりはひかりであろうと懸命なのだった。誰にも気づかれないかもしれないそのひかり。


ユウ。ひかりはちかちかと素早くまばたきをし、わたしに話しかける。ユウ、ぼくが見えてる? ちかちか、ちかちか。うん、うん、見えているよ、ちゃんと見えている。ちかちか、ちかちか。ひかりがまばたきをしているのか、わたしがまばたきをしているのかだんだんとわからなくなり、混乱してわたしは目を閉じる。いつの間にか声は遠い。行っちゃうの? 目を閉じたままわたしは呼びかける。行ってもいい? ひかりは言う。行かないでよ、まだ、まだ、そこにいて。わたしが言う。わかった。でも、行く。でも、いつでも会える。ひかりは右耳に声を残す。残した置物を拾ってわたしはまぶたを開ける。

万華鏡はわたしの体温に近いほどにぬくもり、目をあげるとそこにはいつもの風景がひろがっていた。青と赤と緑と黄と白と黒と灰と茶と橙。それらはひかりが混ざるように、一緒になると透明になった。澄んだ世界が見えた。わたしはわたしをのぞきこんで、すると世界はこんなにも澄んで見えたのだった。万華鏡はわたしの入り口に置いておく。必要になったらまた右眼をあてるから。迷いそうになったらわたしはわたしの色を確かめに行く。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集