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『荷風を盗んだ男』の波紋。声で繋がる祖母との縁【吾輩 ハ 伊庭心猿 ノ 孫猿 デアル】④

【本記事は創作大賞2026オールカテゴリ部門応募作、全5作品の4作目です】


「俳句を一句ひねるみたいな感じ」

三省堂国語辞典の編集委員の飯間浩明(敬称略)が、テレビ番組「あの本、読みました?」で、語釈についてそう話をされるのを観て腑に落ちた。

祖父は俳人だった。

どちらかというと、廃人みたいな人生だったようだが、その俳人である祖父が、辞書の編集、編纂にかかわっていたのだという話を聞いたのは、私が10歳になるかならないかの頃だった、と記憶している。

語釈を付けることが、俳句を一句ひねるみたいな感じというのであれば、果たして祖父が辞書の編集者として白羽の矢が立つのは、さもありなん、サモハンキンポー(ごめんなさい)。

その辞書とは、広辞苑
そこのあとがきに祖父の名前も載っている。

これは、私がインターネットを通じて己のルーツ、祖父と父の足跡を辿る、ドキュメンタリー=実話de R

(第1回から第3回はマガジンにまとめています😊)


与太話の判定やいかに


私が生母から聞かされていたのは、祖父の名が広辞苑に載っているが、本名ではなく、ペンネームで載っているということでした。

ペンネームは、伊藤の伊に庭と書いてイバと読ませるのだと、説明されたのでよく覚えております。

今回、記事を書くにあたり、祖父について色々検索した中に、広辞苑のあとがきに祖父の名前が載っているという情報を発見!

そこで、引用されていたものをみると、祖父の名はペンネームの伊庭ではなく、本名が書かれていました。(前回のお話👉吾輩 ハ 『荷風を盗んだ男』伊庭心猿 ノ 孫猿 デアル③

ペンネームが記載されたというのは、生母の記憶違いであろうことが判明。

他にも、記憶違いなのかなんなのか、私が与太話と思っても仕方のないような、フクザツな父の家庭の話。

曰く、父は猪場の家の養子だそうだが、父の母に当たる人、つまり、わたしには祖母で、祖父の妻にあたる人は(話についてこられていますかー?)、父の姉なのだという。

つまり、祖母と父は姉と弟なのだ、ということらしいのです。

そして、父は、祖母のことを
「妾みたいなことしやがって」
と言っていたのだとかなんとか(仲、悪かったん?)。

ところが、戸籍によると、父が猪場の養子であったことはまちがいないようであるが、取り寄せたものだけでは、父と祖母が姉弟ということを裏付けるような記述は見当たらなかった。

戸籍もこれ以上辿れないということで、これは与太話決定でいいかと思いました。

永井荷風『来訪者』に出てくる祖母の記述


祖父には離婚歴があるので、もしかすると略奪婚のようなことがあったかも……?

しかし、どうも永井荷風の小説『来訪者』を読んでいると、祖父は祖母の妹に目を付けていた(!)のに、間違えて祖母の部屋に忍んだというのだから、略奪婚どころか、祖母の方はいい迷惑デアル。

永井荷風の小説に出てくるのが祖父の前妻とも考えられるが、祖父がちょっかいを出したとされる女性の描写から、祖母を指すものに間違いはなさそうです。

祖母の妹という人は、ケバい人のような描写で、なるほど、一度電話で話した限り、きっついおばはんでありました(あ)。

何年も音沙汰がなかったくせに、私の嫁ぎ先に弁護士を通して遺産を放棄しろとFAXをよこすようなおばはん。

デリカシーもクソもない。

ここで恨み言を言わせてもらおう。(それこそデリカシーもクソもない)

放棄「させられた」遺産、というのは、祖母の遺産で、私の方は別にごねる気もなく、それどころか祖母が亡くなったこと自体、寝耳に水。

せめて祖母の死に目に会いたかったと、悲しい気持ちで打ちひしがれているのに、感じの悪いおばはんにすっかり気分を害され、半ギレ状態で遺産放棄の書類に判をついた。

どんな書類だったか、
本当に判をついたのか、

今となっては記憶にございません、ちーん!

しかし、のちにしまった、と思ったことがございまして。

祖母は三味線の師範だったようなことを聞いていたことを思い出したものですから、三味線の一本ももらっておけばよかった、畜生め、とお腹の中で毒づきました。

祖母もサルもの


祖母は私をかわいがってくれていました。
おそらく、溺愛していたといっても過言ではないと、感じております。

これは飽くまで私の推測、妄想ではありますが、父を養子に迎えるくらいだから、子供に恵まれなかったのであろう祖母。

夫を亡くし、その後10年ほどで子まで亡くし、その子に生き写しと言われるまでにそっくりな孫(つまり私)を取り上げられて、どんなに寂しい暮らしをしていただろうか。

おばあちゃんに会いたい。

電話越しの声は、今でも耳にこびりついて離れない。

せつない、悲し気な、それでいて慈愛に満ちた声を、私は一生覚えているだろう。

「リアンちゃんや、おばあちゃんだよ、わかるかい?」

生母には冷たく当たっていたと言う話だったが、私にとっては、おばあちゃんはいい匂い。

いつもきれいにしていて、きちんと和服を着ていた人でした。

ニコニコ笑顔というのではありませんでしたが、文字通りいつも目を細めて私を見ていてくれた記憶があります。

祖母の家には、お菓子がありました(唐突)。

孫を招き入れるのに、お菓子くらい用意するだろう、と思われるかもしれないが、どうも売り物としてのお菓子、同じお菓子がいくつも並んでいたような記憶が、かすかに残っている。

祖父と暮らしていた真間の家では、駄菓子屋さんのようなことをしていたらしい記述が荷風の作品にも、ほかの資料にもあったように思う。

ここで、ソースを確認してみたら、駄菓子屋ではなく“玩具屋(おもちゃ屋)”という記述でした。

おもちゃもあったような、なかったような……。

まあ、2、3歳児が覚えているわけがない(開き直り)。


ところで、祖母は三味線の先生ではなく、小唄の先生だったということも判明。

しかも、戸籍は元号表記なので気づかなかったが、祖母は祖父と一回り違う申年生まれ。

そして、私はボーカル講師をしている申年生まれ。

そして、ここでまた気づいたのが、私と祖父が60歳違いということである。

だからなに?

こうなると、些細な事でも、え、不思議!と言いたくなるものなので、どうかお許しください。

祖父を辿る旅のおわりに


祖父が詐欺しちゃった話をメインにしてしまいましたが、祖父は広辞苑の前身?たまご?に関わったくらいなので、けっこうすごい人なのde R

樋口一葉全集を編纂したり、この辺はソースがあやふやだが、出入りしていた浅草あたりでは演出にもかかわっていたとかいないとか。

とにかく、じーさん、どうしてそっちの才を伸ばさなかった!(持ち上げたいのか、落としたいのか)

祖父の父、つまり私からは曾祖父にあたる人であるが、この人が有名な篆書家で、永井荷風全集のデザインをしたとかしないとか。

祖父は曾祖父の器用さを受け継いだって、
だから偽物の書がうまかったって、
そんな書かれ方して、ばかー!と、思う。

私自身、真面目(にみえる)な顔をして、とんちきな人間です。

期待を裏切りたくなる(いい意味でね、私はね!)ようなところがあるので、祖父の伊庭心猿=意馬心猿を自虐的に名乗る気持ちも、全くわからないわけではないなあ、とも思う、思うけれどもさ、しかし(ぶつぶつ)

ここで一旦、祖父を辿る旅は終了、「旅」は愉快で痛快でした。

祖父の書いた文章もインターネットで読むことができたし、祖父のことを書いたとされる本も、ネット通販で取り寄せることができました。

いい時代に生きている私。

祖父は51歳の時に肝臓がんでなくなったそうで、入院中も抜け出してお酒を飲むような、迷惑極まりない患者ぶりだったとのこと、お恥ずかしい限り。
ごめんなさい。

私は祖父が亡くなったその年齢を超えて生きてしまっている━。

私にできることはなんだろうか。

第1回から第3回まではこちら↓

「長文の 読了 お疲れ 有難う」 次回へ続く

小幡リアン心の一句




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小幡リアン ありがとうございます🎀めぐり合いに感謝🙏