作家・朝井リョウさんの凄さを知った日(あまりに高い肛門の壁)
250日ほど前のこと。
私がnoteを始める、ほんの少し前に読んだ一冊。
朝井リョウさんの『そして誰もゆとらなくなった』。

それまで私は、エッセイというジャンルをほとんど読んでこなかった。
小説は好き。でもエッセイは、「日記みたいなものかな」くらいの認識。たまたま手に取って読み始めたら、
「うげぇっ! 面白っ!」
気付けば、一気読みしていた。
自分の失敗や恥ずかしい出来事を、自虐たっぷりに、それでいて絶妙な言葉選びで笑いに変えていく。
「こんな表現するのか」
「そこをそんな角度から切り取るのか」
ページをめくるたびに、悔しいくらいニヤニヤさせられた。
「ああ、やられた。」
そんな感覚。
ああ、こんな文章を書けたらどんなに楽しいだろう。
自分の苦い経験を書いて、それを読んだ誰かが少しだけ笑ってくれる。
失敗が、誰かの娯楽になる。
すごく痛快なことだろう。
振り返ると、noteを始めた理由の一つは、作家 朝井リョウの書く文章への憧れだった気がする。
この本の中でも特に好きなのが、肛門科の医師とのエピソードだ。
(前作『風と共にゆとりぬ』中では、痔瘻を患う肛門の治療について「肛門記」が記されている。)
今作では、肛門科医と天ぷらを食べに行く。文字にすると、それだけの話なのだけど。
朝井リョウの手にかかると、それが何ページも笑い続けられるエンターテインメントになる。
書き手によって、ここまで景色が変わるのか。「プロの作家って、とんでもない仕事だな」とあらためて思う。
朝井リョウは、「肛門」という二文字を、日本で最も上品に扱える作家なのではないか、と。
「肛門」という単語を、何度も登場させながら、下品にならない。
むしろ文章全体には、不思議なくらいの清潔感すら漂っている。まるでクラシック音楽のような品格を保ったまま、「肛門」が何度も現れる。
これは技術だ。
しかも、笑わせようと肩に力が入っていない。本人は至って真面目に事実を書いているだけなのに、読者だけが勝手に崩れ落ちる。
このエピソードを読んで、「肛門」という単語にも文体があることを初めて知った。「肛門の文章が美しい」と感じる日が来るとは思わなかった。
文章とは、単語ではなく、書き手が決めるものなのだ。
その一文を読んで以来、私は何度も思う。「自分にも、いつかこんな文章が書けるだろうか」と。
この250日、何度も下書きを書いては削除を繰り返しているテーマがある。
コロナ禍にVIO脱毛した話だ(照)。
当時、マスク着用をいいことにヒゲ脱毛だけをする予定だったのだが・・完全に営業のお姉さんのトークにやられてしまった。
正直、人生で一番恥ずかしかったかもしれない数ヶ月の苦い記憶。
材料は揃っている。
……なのに、どうしても公開ボタンが押せない。
理由は一つ。
私の頭の中には、あの肛門があるからだ。
ゆとり三部作で築き上げられた、あの世界観は、あまりにも完成されてしまっている。
軽い気持ちで下半身の話を書こうものなら、「君は、本当にその覚悟で肛門に触れるのか。」どこからともなく、そんな声が聞こえてくる。
ゆとり三部作を通して、肛門という単語を何度も登場させながら、品格を失わず、笑いだけを積み重ねていく。
あれを読んでしまった人間は、生半可な気持ちで下半身文学には踏み込めない。その領域に立つ勇気がなくなる。
自分の文章には、品格がない。
「ここで笑ってください」と、前に出すぎてしまう。
VIO脱毛の記事を書くには、
私にはまだ、覚悟も技術も足りない。
私の前には、今日も、
朝井リョウの肛門という高すぎる壁が立ちはだかっている。
本日も読んでいただきありがとうございました🙇!
朝井リョウさんの『そして誰もゆとらなくなった』は、今なら、Kindle Unlimitedの読み放題で読めますんで、読んでいない方はぜひ〜😃。
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