世界が注目する土壌
私たちの足元に広がる土壌。そこには地球上で最も豊かな生物の世界が存在しています。土壌生物多様性とは、土の中に棲むありとあらゆる生きもの(微生物から小動物、植物の根に至るまで)の織りなす多様な生命現象のことです。ミミズや昆虫だけでなく、細菌・菌類・原生動物など目に見えない微生物からモグラのように地下で生活する哺乳類まで、多種多様な生物が土壌という空間を共有しています。
地球上の生物種の約6割は土壌に生息しているとの推計もあり、「地球最大の生物の宝庫」は熱帯雨林ではなく足元の土なのかもしれません。本稿では、土壌の生物多様性に関する世界的な最新の話題と動向を、国際政策の枠組みから科学的知見、具体的な取り組み事例、そして今後の展望と課題まで紐解いてみたいと思います。
歴史的に、肥沃な土地を奪い合ったのが戦争でした。いつの時代も水と土が代表的な自然資本です。今日は土壌について詳しくなってみましょう。
今日も楽しんでいってくださいね!
お急ぎの方向けのクイックサマリ:世界の土壌レポート:私たちの足元にある危機:土壌の豊かさと劣化の現状
土壌に広がる“見えない”世界
土壌中の生物たちは、人類にとって様々な恩恵をもたらしています。その一部を挙げると、次のようになります。
豊かな生物多様性: 地球上の生物種の約6割が土壌に生息。
食料生産の基盤: 人類が消費する食料の約95%は土壌に由来。
炭素貯蔵による気候緩和: 土壌は陸域全体の約80%の炭素を蓄え温室効果ガスの吸収源として気候変動の抑制に貢献。
環境浄化と水循環: 土壌は大気中の汚染物質を吸着・分解し、自然のフィルターとして水質を浄化する役割も担う。
災害リスクの軽減: 健全な土壌は豪雨時に水を蓄え、洪水など気候極端現象の被害を和らげる緩衝材となる。
このように土壌は、生態系サービス(自然が提供する恵み)の宝庫です。しかし残念ながら、地中の生きものたちの働きは長らく「見えない存在」として軽んじられてきました。その価値は過小評価され、保全への取り組みも地上の生物多様性ほど進んでいないのが実情ですmiragenews.com。近年ようやく国際社会でこの“隠れた宝”に光が当てられ始め、足元の土壌生態系を守り活かすことが持続可能な未来に欠かせないとの認識が広がっています。国連食糧農業機関(FAO)の屈冬玉事務局長は土壌中の生物たちを「静かで献身的なヒーロー」になぞらえ、その存在価値がようやく認識されつつあると述べていますfao.org。
国際的な政策枠組みにおける土壌生物多様性の位置づけ
世界規模で土壌の生物多様性に注目が集まる背景には、国際的な環境目標や政策枠組みへの組み込みが進んできたことがあります。土壌は従来、森林や水域のように単独の条約対象にはなっていませんでしたが、横断的な重要テーマとして複数の国際目標に貢献するものと位置付けられていますf。
例えば持続可能な開発目標(SDGs)では、土壌生物多様性そのものを直接言及するゴールこそないものの、陸域生態系の保護や土地劣化の阻止(目標15)、飢餓の撲滅と持続可能な農業(目標2)、気候変動への対応(目標13)など、多くの目標達成に土壌の健全性が不可欠です。国連は「国連生態系回復の10年(2021–2030)」を宣言し、森林から海洋まで劣化した生態系の修復を呼びかけていますが、その中で土壌の回復と生物多様性保全も重要な柱となっています。また毎年12月5日は国連が定める世界土壌デーであり、土壌資源とそこに棲む生物の大切さを啓発する機会となっています。
生物多様性条約(CBD)の枠組みにおいても土壌への注目が高まっています。2018年のCBD第14回締約国会議(COP14)では、土壌生物多様性に関する世界的な知見の集約が提案され、FAOに対し現状と課題をまとめる報告書の作成が要請されました。この要請を受けてFAOは世界中から300名以上の科学者を動員し、2020年末に『世界の土壌生物多様性の知見:現状、課題、可能性』と題する初の包括報告書を公表しました。その中では「土壌の生物多様性の損失は全地域で土壌に対する主たる脅威の一つ」であると指摘されfao.org、今後の対策の方向性が示されています。また2022年にはCBDのポスト2020枠組みとして「昆明・モントリオール世界生物多様性枠組み(GBF)」が採択されましたが、その中で2030年までに劣化した生態系の30%を効果的に修復する目標(ターゲット2)や、自然がもたらす貢献(Nature’s Contributions to People)の維持・強化に関する目標(ターゲット11)において土壌の健全性(soil health)の回復が明確に謳われていますcbd.int。これは、生物多様性保全の新たな世界目標の中に土壌という視点が組み込まれたことを意味します。
気候変動の枠組みにおいても、土壌生物多様性は自然に基づく解決策(Nature-Based Solutions)の一部として注目されています。土壌は莫大な量の炭素を貯留し温室効果ガス排出の抑制に寄与するため、パリ協定の目標達成にも重要です。特にフランス主導で2015年に発足した「4パーミル(4‰)イニシアチブ」は、世界中で農地土壌中の炭素蓄積量を毎年0.4%増やすことを提唱し、多数の国・機関が賛同しています。これは土壌管理の改善(有機物の投入や適切な耕作法の採用)によって大気中のCO₂を土壌中に隔離し、同時に土壌の肥沃度や生態系を向上させようとするものです。さらに国連砂漠化対処条約(UNCCD)でも、土地劣化をゼロにする「土地劣化中立(LDN)」目標の一環で土壌の保全と回復が掲げられており、土壌生物多様性はその技術的指標の一つとみなされています。こうした気候変動や土地劣化への国際的取り組みにおいて、土壌中の生態系の役割が改めて評価され始めているのです。
このように土壌生物多様性は、国連の持続可能な開発目標から生物多様性・気候の両国際条約まで横断的に貢献するテーマとして位置付けられつつあります。その重要性を広め議論する場も増えており、2021年にはFAOとCBD事務局、UNCCDの科学パネル、グローバル土壌生物多様性イニシアチブ(GSBI)などが合同で「土壌生物多様性シンポジウム」を開催しました(新型コロナの影響でオンライン開催)。この会合では各国の政策立案者や農業従事者、科学者が一堂に会し、「土を生かし、土壌生物多様性を守ろう」をスローガンに持続可能な開発と土壌生態系の統合について議論が行われました。国際機関の垣根を超えた連携も進みつつあり、まさに土壌の生物多様性はグローバルアジェンダの一角を占め始めているといえるでしょう。
最新の科学が語る土壌生態系の機能と懸念
科学研究の世界でも、この10年ほどで土壌生物多様性に関する知見が飛躍的に深まりつつあります。かつては微生物を培養して調べる手法が中心で、土壌中の生物相のごく一部しか把握できていませんでした。しかし近年はDNA解析技術の進歩によって*土壌のブラックボックス”が解明され始め、土壌中の微生物群集が農業から気候まで幅広い分野に与える影響が次々と明らかになっています。
まず、土壌の生物多様性が私たちの生活を支える生態系機能の基盤であることが証拠立てられてきました。世界各地の土壌を比較した大規模研究では、微生物の多様性が高い土壌ほど多面的な機能(養分循環、植物生産、炭素蓄積など)が維持され、結果的に気候緩和や土壌肥沃度、食料生産にも好影響を及ぼすことが確認されていますnature.com。逆に言えば、土壌中の微生物多様性が失われると炭素の土壌内貯留や肥沃度が低下し、農作物の収量や気候調節機能の低下につながりかねませんnature.com。実際、微生物多様性が高い土壌では植物病原菌など有害な病原体の割合が低く抑えられるという報告もありmiragenews.com、豊かな土壌生態系が土壌伝染病の自然な抑制につながる可能性が示唆されています。こうした知見は、農地や森林において生物相を豊かに保つ管理が長期的な生産性とレジリエンス(回復力)につながることを科学的に裏付けるものです。
一方で、土壌生物多様性が直面する危機についても研究が進んでいます。人間の活動によって土壌中の生態系が脅かされている実態が、徐々に数値的な証拠をもって示され始めました。
土壌生物多様性の劣化要因としては、人間による土地利用の変化や有害物質の投入が大きく影響します。特に農薬や化学肥料の過剰使用は土壌中の生物層に深刻な打撃を与える主要因であり、その結果、土壌本来の力が削がれて農業の持続可能性さえ損なわれかねません。他にも森林伐採や都市化による生息地消失、過度な耕起や集約的農業による土壌構造の劣化、土地の過剰な密封(舗装)、工業や生活排水による汚染、酸性雨による酸性化、さらには気候変動による乾燥化や山火事の増加など、列挙すればきりがないほど多様なストレス要因が土壌生態系を脅かしています。現に、EUの報告では欧州の土壌の60%が健全とは言えない状態にあると評価され、国連機関の推定では世界で毎秒サッカー場サイズの表土が失われているとも言われます。土壌は一度劣化すると人の一生では再生しきれない実質的に非再生の資源です。したがって、こうした危機的状況に対処し土壌生物多様性を守ることは、食料安全保障や気候目標の達成にも直結する喫緊の課題となっています。
グローバル・イニシアチブとプロジェクトの展開
FAOは2012年に「グローバル土壌パートナーシップ(GSP)」を設立し、各国政府や科学者コミュニティと連携して土壌資源の保全に取り組んでいます。その中で土壌生物多様性は重要テーマの一つと位置づけられ、前述のとおり2020年にはCBD事務局や欧州委員会、GSBI(グローバル土壌生物多様性イニシアチブ)などと協力して世界的な評価報告書を発行しました。この報告書は政策立案者向け要約も用意され、各国の生物多様性戦略や土壌保全政策に知見を提供するものとなっています。今後、各国が国家レベルの生物多様性報告や土壌調査を行う際には、土壌生物多様性の指標を組み込むことが推奨されており、世界的にデータを蓄積していく動きが強まるでしょう。
一方、欧州連合(EU)は土壌生物多様性の保全と再生に向けた最先端の政策を打ち出しています。2021年、EUは「土壌戦略2030」を策定し、2050年までにすべての土壌を健全な状態にするという長期ビジョンを掲げました。また、EUの研究開発計画「地平線ヨーロッパ」の一環として始まったミッション“土壌協定(A Soil Deal for Europe)”では、各地で実証プロジェクト(リビングラボ)を展開しつつ2030年までに土壌劣化の軽減や土壌生物多様性の増進など具体的な目標を追求しています。
企業・自治体・農業現場での注目事例と対策
土壌の生物多様性を巡る動きは、国際会議や政策の場だけでなく、企業や自治体、農業の現場レベルでも広がっています。農業分野では特に「再生型農業(リジェネラティブ農業)」という新たなコンセプトが世界的に注目され始めました。これは土壌を単なる生産の土台ではなく生きた生態系として扱い、その生物多様性と機能を回復・強化しながら農業を営もうという考え方です。具体的には、化学投入物に頼りすぎずカバークロップ(被覆作物)の栽培や不耕起(プラウレス)・輪作・堆肥利用などを組み合わせ、土壌中に有機物と多様な生物相を蓄えていく手法が重視されます。こうした再生型農業は土壌の健康を改善しつつ気候変動の緩和や生態系サービスの増進にもつながるため、企業のサプライチェーンや生産現場にも取り入れられ始めています。実際、グローバル企業も農家と協働して土壌生態系の再生に乗り出しています。例えば食品大手ネスレのペットフード部門(ネスレ・プリアナ)は欧州各地で農家約450戸とパートナーシップを結び、2030年までに原材料の50%を再生型農業で生産されたものに切り替える目標を掲げました。その一環で、農閑期に土壌を覆うカバークロップの導入や耕起の削減といった農法支援を行った結果、土壌の肥沃度が回復し、土壌侵食の軽減や水質改善、生物多様性の増加といった効果が現れています。企業側は農家への資金援助や研修を提供し、持続可能な調達網の構築と自社製品のブランド価値向上に結び付けています。このように、再生型農業への転換は企業にとっても長期的な供給安定や気候リスク低減の戦略となりつつあり、穀物メジャーや飲料メーカー、化粧品メーカーなど幅広い業種で類似の取り組みが報告されています。日本でも、ビールの原料大麦を対象に再生農法を試験導入する動きや、コメ作りで生物多様性に配慮した「あぜ道ビオトープ」の推進など、企業と生産者が協力したユニークな事例が現れ始めています。
自治体レベルでも、土壌生物多様性への配慮をまちづくりに組み込む先進事例が出てきました。フランスのナント市(ナント大都市圏)は、人口増による住宅需要に応える一方で生態系を守るため、都市計画において既存の舗装面を可能な限り剥がして土壌を露出・復元するという大胆な政策を進めていますnetworknature.eu。駐車場だった土地を緑地に戻したり、新規開発では透水性の素材を用いて地下の生物環境を維持したりといった取り組みにより、ミミズや土壌菌類が豊富な土の再生を図っています。ナントではこれにより都市の洪水リスクを下げ、住民に涼しい緑陰空間を提供する効果も生まれており、環境と開発の両立を目指すモデルケースとして欧州で注目されています。また、欧州の複数の都市が参加する「アーバンネイチャープラン」では土壌生物多様性を都市の自然戦略に統合する動きがあり、ベルリンなどが都市目標として土壌生態系の指標を設定し始めています。世界各地の研究者が連携して土壌生物多様性観測ネットワーク(Soil BON)が立ち上がりつつあり、統一手法による土壌生物データ収集が進められていますsoilbon.org。将来的にはリモートセンシングやAIを駆使して、広域の土壌生態系変化をモニタリングする技術も開発されるでしょう。
世界の土壌の豊かさと劣化状況:現状、影響および回復に向けた取組
FAO(国連食糧農業機関)の報告によれば、世界の土壌資源の大半は「良好」とは言えず「普通」から「不良」あるいは「極めて不良」の状態にあり、その傾向は改善よりも悪化が上回っていますfao.org。具体的には、地球上の陸地の約33%が土壌侵食、塩害(塩類集積)、土壌の締固め、酸性化、化学物質汚染などによって中程度から高度に劣化していると推定されていますfao.org。
アジア地域
アジア太平洋地域は世界の耕地面積の約半分を抱える食料供給上重要な地域ですが、土壌劣化も深刻です。高い人口密度と集約的な土地利用、季節的なモンスーン豪雨などにより、土壌侵食が各地で進んでいます。例えばインドでは降雨による表土流出が年間約53億トンに達し、農業生産を大きく制約しています。また過度の化学肥料・農薬使用や工業汚染による土壌汚染も問題です。中国では調査により農地の約20%が重金属などで汚染されていると報告されており、土壌汚染が作物生産や食品安全に影響を及ぼしています。乾燥地帯の灌漑農地では塩害も深刻で、世界全体で灌漑地の3分の1が塩分蓄積により生産力低下に直面しており、とりわけアジアにその影響が集中しています(例えばパキスタンでは全耕地の15~20%が塩害の影響下にあります)。さらに気候変動に伴う海面上昇はデルタ地帯への塩水浸入を招き、ベトナムのメコンデルタでは毎年数百ヘクタールが侵食と塩害で耕作不適に陥っていますasiapathways-adbi.org。このようにアジアでは土壌侵食、汚染、塩害など複合的な劣化要因が見られ、土壌肥沃度の維持に大きな課題を抱えています。
アフリカ地域
アフリカの土壌は多様ですが、慢性的な養分不足や乾燥に伴う劣化が広範囲で問題となっています。サブサハラ・アフリカでは土壌の養分流出(いわゆる「養分枯渇」)が深刻で、実にほとんどの国(3か国を除く全て)で毎年施肥や有機物還元よりも多くの養分が土壌から失われていると指摘されていますfao.org。この養分欠乏は土壌肥沃度を低下させ、農業収量の停滞や減少を招いています。またアフリカ大陸は地球上で最も土地劣化の影響を受けている地域の一つです。推計ではアフリカの生産的な土地の最大約65%が何らかの形で劣化しておりafricarenewal.un.org、特に乾燥帯では砂漠化が深刻です。サハラ以南の半乾燥地域などで乾燥化・砂漠化が進行し、大陸全体では約45%もの土地が砂漠化の影響下にあるとされます。このような土壌劣化と気候変動に伴う干ばつの頻発はアフリカの食料安全保障と生計基盤を脅かしており、土地生態系の脆弱性が高まっています。
ヨーロッパ地域
ヨーロッパでは長年の集約的農業と都市化により土壌への圧力が生じています。EU域内では推定60~70%の土壌が健康とは言えない状態(劣化状態)にあり、土壌劣化による経済損失は年間約500億ユーロに上るとも試算されていますenvironment.ec.europa.eu。水による土壌侵食は欧州の約24%の土壌(主に耕地)に影響しており、年間推定10億トンもの表土が流出していますeasac.eu。また過剰な肥料投入や片寄った施肥による養分バランスの乱れが広範に見られ、欧州の農地の約74%で窒素やリンの過剰・不足が問題となっていますeasac.eu。その結果、地下水汚染や生態系への影響が懸念されています。土壌有機炭素量の減少も課題で、2009年から2018年の間にEUおよび英国の農地表層から推定7,000万トンもの有機炭素が失われたとの報告がありますeasac.eu。さらに都市の拡大による土壌の不透水化(舗装やコンクリートによる地表被覆)も肥沃な土壌の永久的喪失を招き、生物生息地の断片化や洪水リスクの増加につながっています。EUはこうした問題に対処するため、「土壌戦略2030」や土壌モニタリング法の策定など、土壌保全への政策的取り組みを進めています。
北アメリカ地域
北アメリカ(主に米国とカナダ)は肥沃なプレーリー土壌など生産力の高い土壌を擁しますが、過去から現在にかけて集約農業による土壌劣化が起きています。米国中西部のプレーリー地帯では開墾以降、機械的耕作や単作の影響で表土の約35%が流出・消失したと推定され、丘陵地から約1.4ペタグラム(14億トン)の炭素が土壌から失われ、作物収量が平均で約6%低下したとの研究がありますpnas.org。1930年代の「ダストボウル」のように、不適切な土地管理は風水害による壊滅的な土壌流出を引き起こしましたが、この反省から土壌保全策(等高線耕作、不耕起農法、輪作など)が米国では20世紀後半以降広まり、侵食率は一時期に比べ低減しています。それでもなお現在、北米の農地では水食・風食による土壌侵食が続いており、一部地域では土壌圧密(重機による踏み固め)や灌漑由来の塩類集積も課題となっています。カナダや米国北部の寒冷地では永久凍土の融解も潜在的なリスクです。北アメリカでは州・連邦レベルで土壌保全プログラムが進められ、農家への技術支援や補助制度によって土壌の持続可能な管理が推奨されています。
南アメリカ地域
ラテンアメリカ・カリブ海(LAC)地域では、熱帯林の大規模な伐採とそれに続く土地利用転換が土壌劣化の主因となっています。この地域には世界の劣化土地の約14%が集中しており、何億ヘクタールもの土地が森林減少や過放牧によって劣化した状態にあります。例えばアマゾンの熱帯雨林を開墾した農地では、強い降雨による表土流出や養分流出が生じ、短期間で土壌肥沃度が低下しがちです。南米の土壌の酸性化も顕著で、世界で最も酸性度の高い表層土壌は、過去に大規模な森林伐採と集約農業が行われた南米の地域に分布していますfao.org。こうした強酸性土壌では作物生産に石灰散布などの土壌改良が必要とされます。またアンデス山脈の傾斜地農耕地では森林伐採に伴う深刻な土壌侵食が起きています。一方、近年ラテンアメリカ各国では土地劣化を食い止め回復させる取り組みも進みつつあります。たとえば地域イニシアティブ「20×20」では2030年までに5,000万ヘクタールの荒廃地を修復する目標を掲げ、持続可能な林業・農業への転換や植林などを各国で推進しています。南米では土壌の潜在的生産力が高いだけに、その保全と回復が地域の持続可能な発展にとって重要な課題です。
農業生産への影響
土壌の劣化は農業生産に直接的な打撃を与えます。土壌肥沃度の低下や耕作地の喪失により、食料生産量が減少し、食料安全保障にも影響が出ます。例えば、世界では毎年推定250~400億トンの表土が侵食で失われており、それに伴う穀物生産の損失は年間約760万トンに上るとされていますfao.org。対策が講じられない場合、2050年までに累積で2億5,300万トンもの穀物が失われる可能性があり、これはインドの全耕地面積に相当する土地を失うのと同等の打撃になります。また土壌中の必須養分(窒素・リン・カリウムなど)の枯渇は、劣化した景観において食料生産を向上させる上で最大の障壁となっており、特にアフリカの劣悪地では深刻ですfao.org。こうした養分欠乏土壌では作物が十分に育たず、生産性が著しく低下します。
土壌の塩類集積(塩害)も農業への重大な脅威です。灌漑の不適切な管理など人為要因による土壌の塩分蓄積により、全世界で約76万km²もの土地が生産不可能な状態に陥っていると推定されますfao.org。これはブラジルの全耕地面積を上回る広さで、その分だけ耕地が失われた計算になります。塩害土壌では作物生育が阻害され、場合によっては耕作放棄を余儀なくされます。同様に、土壌の酸性化も世界的な問題で、強酸性の土壌環境は作物の根の発達や養分吸収を妨げ、生産を制限します。南米の一部では森林開拓と農業化により土壌が深刻に酸性化し、世界でも最悪の酸性土壌が形成されていますfao.org。このような土壌では石灰資材の投入などでpHを是正しなければ作物栽培が難しく、対策コストがかさみます。
総じて、土壌劣化により作物単収が低下し、利用可能な耕地面積も減少するため、食料生産への影響は甚大です。劣化した土壌は肥沃な土壌に比べ収量が安定せず、干ばつや大雨にも脆弱で、農業経営のリスクを高めます。その結果、特に脆弱な地域社会では食料不足や農民の収入減少を招き、貧困や栄養不良の悪化につながる懸念があります。国際機関も「これ以上生産的な土壌を失えば、食料生産や食料安全保障に深刻な影響が及び、何千万人もの人々が飢餓と貧困に陥る可能性がある」と警鐘を鳴らしています。ただし報告は同時に、適切な対策を講じればこうした損失を回避できるとも述べていますfao.org。農業生産への悪影響を最小限にとどめるには、土壌劣化の抑止と土壌改良による生産力の回復が急務です。
生物多様性・生態系サービスへの影響
土壌は「地球最大の生物圏」とも言われ、その中には膨大な生物多様性が秘められています。土壌は地球上の生物多様性の25%以上の種の棲みかともいわれておりfao.org、実際に私たちが把握している土壌微生物種はそのわずか1%程度に過ぎないと推定されています。また地球上の生物の最大90%近くは、生涯の一部を土壌中で過ごすとも言われます。このように膨大な種類の微生物(細菌・菌類など)や土壌動物(線虫、ミミズ、節足動物など)が土壌に生息しており、「地中の生物多様性」は地上の生態系を支える基盤となっています。土壌中の生物は有機物を分解して養分を循環させ、植物に栄養を供給します。また一部の土壌微生物は大気中の窒素を固定し、土壌に肥沃度を与えます。土壌は巨大な浄水装置でもあり、降った雨水は土壌層を通過する間にろ過され、微生物が汚染物質を分解・不活性化することで水質が浄化されます。さらに土壌生物は有機炭素を安定化させて土壌中に貯留する役割も担い、気候調節にも寄与しています。このように土壌生物多様性は食料生産、水の浄化、炭素隔離など数多くの生態系サービスを下支えしており、地上の動植物の多様性を維持する上でも極めて重要ですfao.org。事実、土壌の生物相が豊かな森林や草原では植生も多様で健全ですが、土壌生物が乏しくなると植生も貧弱化しがちで、ひいては上層の動物相にも影響します。
改善策・回復可能性に関する科学的知見
土壌劣化は深刻な問題ですが、科学的知見によれば適切な対策を講じることで土壌を回復・改良することは十分可能です。持続可能な土壌管理(Sustainable Soil Management)の手法は各地で実践され、その効果も確認されています。例えば土壌侵食への対策としては、不必要な耕起を減らすか止めること(不耕起・減耕起栽培)や、収穫後の作物残渣で土壌表面を覆って雨滴や風から表土を保護することが有効です。実際、耕起を減らすことで表土流出が劇的に減少し、長期的には土壌有機質の蓄積量も増加したという報告があります。また土壌養分の枯渇には、有機物を土に戻すことと作付体系の工夫が重要です。具体的には、刈草・枯葉やたい肥・堆肥、家畜糞尿などの有機物を圃場に還元し土壌有機質を増やすこと、マメ科作物を組み入れた輪作を行って窒素を土壌中に固定すること、そして不足している養分は必要最小限の化学肥料で補い過剰な投入は避けることなどが推奨されますfao.org。こうした統合的な養分管理により、劣化地でも土壌の化学的肥沃度と生物的健康が徐々に回復し、収量向上が見込まれます。
塩害(土壌の塩類化)への対策としては、灌漑手法の改善が不可欠です。過剰灌漑や排水不良で塩分が蓄積した土壌では、適切な排水路を整備して地下水位を下げ、淡水による定期的な洗塩を行うことで塩分濃度を低下させることができます。また塩分耐性の高い作物や在来種を栽培することも一時的な対策として有効です。沿岸デルタ地域での塩水浸入には、防潮林の造成や潮位管理、堤防・水門の設置など総合的な土地・水管理が必要です。酸性化した土壌に対しては、石灰資材(炭酸カルシウムなど)の投入が広く行われており、これによってpHを中性に近づけることで作物の生育環境を改善できます。併せて、有機物投入による緩衝能の付与やアルミニウム毒性の緩和も有効です。例えばブラジルのセラード(サバンナ)開発では、大規模な石灰投入とリン肥施用によって酸性ラトソル(土壌)を穀倉地帯へと転換した事例があります。ただし過度の矯正は他の養分バランスを崩す恐れもあるため、土壌分析に基づく適切な処置が重要です。
土壌汚染(重金属・有機汚染物質など)に関しては、その除去・無害化に科学的技術が活用されています。例えば植物の持つ吸収能力を利用して土壌中の重金属を回収するファイトレメディエーション(植物による浄化)や、微生物による分解を促進するバイオレメディエーションが研究・実践されていますfao.org。一部の細菌・菌類は有機汚染物質(農薬や石油化学品など)を分解し無毒化できるため、汚染土壌に適切な菌株を接種する試みもありますfao.org。重金属については、キレート剤で溶出させてから植物吸収させる方法や、逆にリン酸などで固定化して作物への吸収を防ぐ方法が取られています。ただ重金属汚染が深刻な場合は表土ごと除去する以外に完全な解決策が無いこともあり、予防的に汚染源(工場排水や大気降下物)を規制することが何より重要です。
土地の回復力(レジリエンス)に関する研究も進んでおり、放棄された農地を森林や草地に戻すことで土壌が再生する事例が各地で報告されています。例えば中国の黄土高原では、過放牧で荒廃した傾斜地に植林・テラス造成を行い、数十年で土壌の有機質と水保肥力を飛躍的に改善させた実績があります。またアフリカのサヘル地域では、住民主体のFMNR(自然植生の再生管理)によって樹木と植生を復活させ、土壌の水分保持能力と生産性を向上させた例もあります。こうした大規模ランドスケープの回復は、従来不毛と見なされていた土地にも回復可能性があることを示しています。国際的な取り組みとして「グレートグリーンウォール(緑の長城)計画」では、アフリカ横断の帯状地域で森林回廊を造成し、乾燥地帯の土地を再生するプロジェクトが進行中ですafricarenewal.un.org。このように乾燥地・半乾燥地においても正しいアプローチを取れば植生と土壌を蘇らせることができ、砂漠化に対抗し得ることが示唆されています。
ご参考) 国際的な評価・統計・データ
国連砂漠化対処条約(UNCCD)の枠組みでは、土地劣化の実態と影響が定期的に評価されています。UNCCDの包括報告書『グローバル陸域アウトルック(Global Land Outlook)第2版』(2022年)は、「全世界の最大40%の土地が何らかの形で劣化しており、人類の半数に直接影響を及ぼしている」と警告しましたeurekalert.org。また、劣化がこのまま進めば2050年までに南アメリカ大陸ほどの広さの土地が新たに劣化する恐れがあるとも予測しています。これは食料生産や気候への甚大な影響を意味します。同報告書は、土地劣化により世界経済の約1/2に相当する44兆ドルの生態系サービスがリスクに晒されているとも指摘しました。UNCCDでは各国が自主的に2030年までの土地劣化中立(LDN)目標を設定することを奨励しており、現在126か国以上がこの目標達成に取り組んでいます。さらにUNCCDは「リヤド・アクションアジェンダ」(2024年COP16)などを通じ、特に乾燥地帯における農地劣化への対策や復元の国際協調を呼びかけています。
IPBES(生物多様性および生態系サービスに関する政府間プラットフォーム)も、土地劣化に関する包括的な科学評価を行っています。2018年の「土地劣化と回復に関する評価報告書」は、世界で土地劣化が臨界的な水準に達していることを明らかにし、「陸域の75%以上が既に大きく改変され劣化しており、32億人の福祉がそれによって低下している」と報告しました。また同報告書は「土地劣化、生物多様性喪失、気候変動は密接に関連した同一問題の3つの表れである」と指摘し、人類の選択が地球環境に与える影響の深刻さを訴えましたnationalgeographic.com。IPBESの2019年の地球規模評価報告書でも、「土地劣化によって世界の陸地の23%で生産力が低下した」**ことや、花粉媒介者の減少による年間5,770億ドル相当の作物生産リスクなどが示されましたtheguardian.com。これらは生態系サービスの損失が既に経済的損失や人類社会への脅威となっていることを浮き彫りにしています。
FAO、UNCCD、IPBES、IPCCといった国際機関・プラットフォームの最新報告は、土壌の劣化が世界的規模で進行しその影響が広範囲に及んでいる現状を一致して指摘しています。同時に、それぞれの報告書は土壌劣化を食い止め回復するための政策・技術オプションも提示しており、政府や関係者による行動喚起につながっています。
1) 世界の土壌マップ(基盤レイヤ)
ISRIC SoilGrids(250m 解像度)
土壌有機炭素・粘土/砂・pH・CEC・全窒素など14特性×6深度の全球格子。肥沃度やテクスチャの空間分布を把握する「基礎地図」として最有力。Web ビューア/API/ GeoTIFF ダウンロードあり。実務では、この上に劣化リスクを重ね合わせて使うのが定番です。 (ISRIC)FAO GSOCmap(Global Soil Organic Carbon Map)
各国主導の国別土壌有機炭素量(0–30cm)のモザイク。国報告に準拠するため、国家データと整合させたい案件に向きます。FAOのHand-in-Hand/ GLOSISでビジュアル化・DL可。炭素貯留の空間傾向や回復ターゲット設定に有用。 (FAOHome)FAO/UNESCO 世界土壌図(Soil Map of the World, レガシー)
土壌大区分の歴史的基盤図。解像度は粗いものの、教育・概観用途に。 (FAOHome)
使い分けのコツ:高解像・多特性で設計するなら SoilGrids、国家統計・報告寄りの整合を重視するなら GSOCmap。両者を重ねて見ると、肥沃な土壌×炭素蓄積の“ホット/コールドスポット”が直感的に掴めます(例:黒土の帯、泥炭地など)。要点は、基盤(土壌特性)と、劣化リスク(下記)を分けて評価することです。
2) 世界の劣化リスクマップ(侵食・塩性化・砂漠化/LDN)
水食による土壌侵食(GloSEM)
JRC/ESDACと研究機関連携のRUSLEベース全球モデル。現況(2019)と将来(2070)の土壌流亡量(t/ha/yr)を100m~250mで推計。政策評価や投資シナリオで使いやすい設計です。サイトから図郭別にGeoTIFF取得可能。 (ESDAC)塩類化(GSASmap/FAO)
塩類・ソーダ性土壌の全球分布。最新の国別投稿データを統合し、上層・下層の影響区分を提示。沿岸デルタや乾燥地灌漑地の生産性リスク把握に直結。 (FAOHome)土地劣化中立(SDG 15.3.1)合成指標
植生生産性×土地被覆変化×土壌有機炭素の3サブ指標を統合し、「劣化面積比」を算出する公式メソドロジー。実務ではTrends.Earth(UNCCD推奨ツール)で国・流域単位の劣化判定マップを作成・出力できます。各国の集計・可視化はUNCCD Data Dashboardでも確認可能。 (unccd.int)
ひとことで言うと:**侵食=GloSEM、塩=GSASmap、統合的な“劣化度”=SDG15.3.1(Trends.Earth/UNCCD)**が、国際標準の“三種の神器”です。
3) 関連レイヤ(補助評価)
GSOCseq(土壌炭素の“追加貯留ポテンシャル”)
0–30cmの管理シナリオ別(SSM)ポテンシャル地図。回復投資や自然由来解決策(NbS)の便益地図化に。 (FAOHome)乾燥地・砂漠化の俯瞰(UNCCD/GLO 概説)
乾燥地拡大や劣化の世界的傾向の最新整理。指標そのものは上記15.3.1に収斂しますが、政策文脈の背景説明に適します。 (unccd.int)
4) 実務での使い方
基盤把握:SoilGrids で対象地域(国・流域・行政界)のpH・テクスチャ・SOCを取得。GeoTIFFをGISへ。 (ISRIC)
劣化リスク重ね:GloSEM(侵食)とGSASmap(塩)のレイヤを重ね、ホットスポット抽出(閾値は業界慣行:例 t/ha/yr>10、ECe>4 dS/m 等を参考)。 (ESDAC)
統合判定:Trends.EarthでSDG15.3.1を算出し、公式定義に沿って劣化/非劣化を面積集計(行政界・流域単位)。ダッシュボード値と突合。 (docs.trends.earth)
回復ターゲティング:GSOCseqで炭素回復ポテンシャルを見て、GloSEM高値域と重なる所を優先回復地に設定。 (FAOHome)
5) ダウンロード/ビューアへの入口(実務リンク)
SoilGrids(Viewer / Download):グローバル14特性×6深度、250m。APIとGeoTIFFあり。 (SoilGrids web portal)
FAO GSOCmap(GLOSIS/Hand-in-Hand):国別SOC、インタラクティブ表示とDL。 (FAOデータポータル)
GloSEM(ESDAC):現況・将来の水食侵食リスク。GeoTIFF。 (ESDAC)
GSASmap(FAO):塩類化の全球分布。国別統計と図化。 (FAOHome)
UNCCD Data Dashboard/Trends.Earth:SDG15.3.1 の国別集計・自動算出。 (data.unccd.int)
