同じ風景は見れない
土手に青空の手抜きの背景。その背景を前にしてメインキャストの僕らは語り合う。回りくどく語ろうが、ストレートに語ろうがすでに決まった事だし、実験の結果報告的なものでしかないけど。
「小説で純粋な客観描写なんて存在しないんじゃないかな。かつてフローベールが純粋客観描写を書こうとした事がある。彼の後にはヌーヴォーロマンの作家。例えばロブ=グリエがフローベールの先を行こうとした。評論の世界だけどヌーヴェル・クリティックの連中が盛んに作者の消滅だと喚いていた時代もある。だけどシンプルに考えたら小説なんてのは所詮人が書いたものじゃないか。風景描写だって人が書くんだから当然主観が入る。いくら空の色を細かく書こうが、その空はあくまでその作家が見た、感じた景色でしかないんだ。昔とある有名な文学者がその評論で故国の偉大な十九世紀の文豪が書いた風景描写を取り上げて、〇〇はりんごは赤い、空は青い、葉っぱは緑といった古典的な風景描写から脱却してより複雑な描写を可能にしたって褒めていたけど、その風景描写だって結局は主観でしかない。客観性なら規則だらけの古典的な描写の方がずっとあるさ。言葉なんて使えば使うほど結局主観的なものなってしまうんじゃないか。小説の風景描写や、人物描写はその小説のものでしかなく、それを書いている作者の主観でしかないものだ。例えば作者があるヒロインをふくよかな美人だと書いたとする。だけど読者である僕はどう読んでもそのヒロインが美しいとは思えないと思う。まぁ当たり前のことだ。だってそのヒロインを美しいと思っているのは作者であって、僕じゃないんだから。これは別に小説だけの話じゃなくて美術にだっていえる。たまに美術館なんかで雑誌とか本とかでよく見る作品を実際に見た時僕はなんか味気なく思うんだ。あれ?こんな無味乾燥なものだっけとね。だけどそれは当たり前なんだ。雑誌や本に載っている写真はカメラマンが自分にとっていかに見栄えのいいものにするかを考えて撮ったものなんだから。そんなフィルターのない目で実物を見てもそこにあるのは只のものでしかないんだよ。人間の見るものは個人個人でそのように違うものだし、そして僕と君もまた見るものが違う」
はぁ~、と彼女はため息をついた。きっと彼女は僕の相変わらずの長広舌にうんざりしているのだろう。
「結局最後までそれなの?いつも勿体つけて回りくどくだらだら喋った挙句結局大事な事は何もいわないんだから。要するに別れたいってこと?」
そうだと僕は言う。こういう場面に決まって吹く微風。かすかな波乱の予兆。
「さっきの話はあなた多分もう同じ風景は見れないってカッコつけて締めたかったんだろうけど、やっぱり駄目だったね。でもいいわ。じゃあさっさと別れましょ。でも」
と彼女は僕をじっと見てこう言う。
「私、あなたとヘンリー・ダーガーよりずっと長い小説の中で同じ風景を見たいって思っていたんだけどね」
