【褒められなくても】
毎朝、ギアマックスの戦いが始まる。
これまで私は、家族を送り出すまでに
何回「早くー!」と言ったか分からない。
子どもの部活。
塾の時間。
送り迎え。
体調管理。
あの子は今日は何時に帰る?
提出物は出した?
今日は、いつもの顔をしている?
仕事に行く前から、 頭の中はいつも誰かの予定でいっぱいだった。
仕事に行けば、 今度は患者さんやスタッフのことを考える。
気づけば、 看護師として二十五年が過ぎていた。
管理職になってからは、 スタッフが働きやすい環境を整え、
必要な時には病院全体の仕組みを見直すために動くこともあった。
何か起きる前に気づいて、 先回りして動く。
それが、 いつの間にか当たり前になっていた。
これまで、 周りからよく言われてきた言葉がある。
「すごいね。」
「よく頑張ってるね。」
「さすがだね。」
悪い気はしなかった。
むしろ、 そう言われるたびに、
人の役に立ち、頑張れる自分にこそ価値があると思っていた。
ある時、そんな私に、姉が言った。
「かわいそうに。 ほんとにあんたは、かわいそう。」
あまりにも予想外の言葉だった。
姉もきっと、 周りと同じことを言うのだと思っていたからだ。
三人の子育てをしながら働く私を、 姉はずっと近くで見てきてくれた。
過労でめまいが出たときも、 誰よりも心配してくれていた。
私は、 初めて褒められなかった。
なぜあんなに心が揺れたのか。
今なら少し分かる気がする。
あの時感じたのは、 戸惑いだけじゃなかった。
どこか、 ほっとした自分もいた。
まるで、 溺れかけて息継ぎもできなくなっていた私が、 ようやく息を吸えたような感覚だった。
ああ、 もうそんなに頑張らなくていいんだ。
そんなふうに、 初めて誰かに許された気がして、 大きく呼吸ができた気がした。
なぜ、 その言葉に救われたのか。
私はずっと、
役に立つこと。
必要とされること。
誰かを支えることに、 自分の価値を重ねて生きてきた。
でも、 五十代が見えてきた今、 少しずつ手放したいと思うものがある。
看護師をやめたいわけじゃない。
誰かを支えることをやめたいわけでもない。
私が手放したいのは、
誰かを支えることではない。
支えることでしか、自分の価値を感じられなかった生き方なのかもしれない。
これから先の人生で、 何を足していくかより、 何を手放していくか。
五十代は、 失う年代ではなく、 身軽になる準備をする年代なのかもしれない。
【今回の(私の)教訓】
・褒められない言葉に、救われることがある
・頑張れることと、頑張り続けていいことは違う
・手放すことは、次の自分を選ぶこと
今回も私のnoteを読んでくださり、ありがとうございました🍔
