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私断片 Part-51

 世界中のニワトリ小屋のニワトリを溶かしたスープが飲みたいの。
 そう彼女が云ったとき、隣のテーブルで朝日新聞を広げていた老人が「虫歯が痛いんや」と小さく呟いたのを僕は聞き漏らさなかった。
「ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」と僕は云った。そうすべきだから、そうしたのだ。
「じゃあなんて云った?」
 彼女はそう云ったけど、僕には彼女の「世界中のニワトリ小屋のニワトリを溶かしたスープが飲みたいの」という発言が本当に事実なのかどうか疑わしく思えて仕方がなかった。
「ねえ」
「うん?」
「聞いてなかったんでしょ。ひどい!」
 彼女は洗剤をつけすぎた真っ白な皿みたいに立ち上がり、「ひどい! ひどいひどい! ひどいひどいひどいひどいひどいひどい!!」と連呼しまくりながら、鞄を置いたままどこかへ行ってしまった。

「世界中のニワトリ小屋のニワトリを溶かしたスープが飲みたいの」
 僕はどうすべきだっただろう。あるいはどうにもならなかったのかもしれない。そういう運命的なものに操られた結果なのかもしれない、と僕は思った。
 彼女の忘れていった鞄を持ち帰った僕は、早速漁ることにする。アーメン。世界中のジャングルから虎がいなくなったとしても、人類は大人しく粛々と自然を破壊してゆくだろうと思いながら、僕も粛々と真面目ぶった顔で中を覗き込む。

 中には小さな人が座っている。僕はなぜか、驚きもせずに様子を見ている。彼だった。あるいは彼女なのかもしれないけど分からない。
 とりあえず僕が「やあ」と云ったら、小さな彼は「こんにちは。今日はとても暑い日です」と答えてくれる。僕は涙が出そうになる。興味深い日になりそうだった。そう感じる。僕の目は悪く、悪いせいで悪く、彼の細かな服装とかは少しも分からず、彼は「ぼくはフリーマン。君は?」と身体の割に大きな声を響かせる。
「僕はね、プリン」
「プリン? それって食べ物だよ?」
「知ってるよ。食べ物の名前でもあるけど、僕はとにかくプリンなんだ、プリン・プリン」
「へえ」と彼は云って、僕は「フリーマンってことは、色々フリーな感じなのかなあ……?」とぼけた老爺みたいに口を半開きにして音を出した。ブーブーブー。ヴァイブレーション。全身にガソリンを行き渡らせよ。

 フリーマンは童貞らしい。僕もだよ、と彼に云うと、「へえ。でも君はまだまだ若いんだから、自由にすればいいよ」と云った。やっぱり物理的におかしな音量をしているような気がする。だからこれは僕の妄想だっていう可能性もなくはない。けど、僕にはそう見えているんだからそう見えているふうに振る舞うしかない。

 僕はプリン・プリン。彼女の名前は知らない。知らなくともそこに愛があれば十分……いや十二分なんだって僕は知ってる。よにょ〜
 とはいえお腹がぺこぺこである。完全に現実主義的な世界から見放されたフリーマン。愛のために生き、愛のために死んだ? 死のうとしてるフリーマン。可哀想だなんて思わないし、これは僕の戯言なんだ。
 小説とは嘘を語り続ける場なんだって!
 そう云ったのはたぶん、十二歳から十七歳までカバンの中で溶けかけたチョコレートみたいなニュージャージー州にある地下室に監禁されていたある散文家の言葉だったろうに思う。そうに違いないと思うし、たとえそうでなくたってこんなもの誰も読みやしないんだから全部勝手!

 童貞のフリーマンに「どうして童貞なの?」と訊くと、彼は答えた。
「生まれつきなんだ」
「へ〜」と僕は云う。
「たとえばぼくが写真家だったらね」
「うん〜」
「そしたらね、このひろいひろい世界のぜんぶを撮って撮って撮りまくろうと思うんだ」
 僕は自発的に首を傾げる。
「それは幸福そうだね」
 フリーマンは幸福そうに顔を綻ばせる、ように見えるけど小さいから分かんない。そういうことで、僕は彼を閉じ込めることにした。
 写真なんて撮らせない。ずっと彼女の鞄の中で腐り切って死んでいけばいいんだから!

 という話を偶然出会った老人に話すと、彼は嘘を吐いている人間を見るような目つきで僕をじろじろ見ながら「お前、嘘吐いてるな?」と云うから僕びっくりで「びっくりした〜」と云った。
「嘘吐きめ!」
 失礼すぎると思ったけど、寛容な僕は老人の暴挙をあっさり許して握手した。
「仲良くしましょ」と云うと、彼は「嫌に決まってるだろ。ちね」ってふざけるから微笑みが止まらない。
 僕は彼に誘われるまま、近いとも遠いともいえない距離にある喫茶店に入る。そして彼は千ページくらいの文庫本を僕に渡す。
「何よこれ? いらん」
「駄目だ」
「嫌だよ。いらないよほんと」
「駄目だ」
「駄目じゃないよ! いらねえって云ってるだろ!」
「…………ううっ」
 と彼は萎んだ風船みたいな老体を震わせて、本当に風船みたいに縮んで萎んでフリーマンと同じくらいのサイズになってしまう。僕はこうなることを知っていたから、あまり驚きはなかったけど驚きはした。声が出ない、と思ったら僕のかわいいお腹に錆びた出刃包丁が刺さっている。
「ひぬっ! たっ助けてフリーマァン!」
 僕はなりふり構わず叫び声を上げる。あまりにもあんまりすぎる情けない僕の叫びは誰にも届かず、老人はへにゃへにゃになった唇を震わせてこう云った。

「つまりはそういうことだ」
「…………」
「…………」
「…………」

 いつに間にやら僕は三人に増えていて、アイデンティティの揺らぎが物理的に世界を揺るがせたんだと思った。そうあるべきなのだ。知らないけど、そういう解釈もできるでしょ? みんな。
 プリン・プリンの呼びかけに最初に答えたのは妹だった。わたしの妹。愚かなようで、時たまわたしを滅多刺しにするような暴言を吐くあの子。
 わたしは思う。愛は祈りでなければならない。確かにそうあるべきで、そういう意味でいえば、プリン・プリンは正しい。愛が祈りであったとして、わたしはおそらく祈らない。そういうふうに魂を作られたのだから。

 僕は中島楓。中卒。どうして中卒なのかは分からなかった。そうであるべきだと、プリン・プリンもゆってるから気にせん。僕と彼はよく似ている。実は僕は半年前に創作されたキャラクターであり、ずいぶん長い間、眠っていたような気がする。「中島楓」という人物は実際に存在しているし、たぶんまだまだ元気にやってると思う。本物の楓くんはたぶん馬鹿だったし正直者でもなかったから馬鹿だった。
 僕は彼を見下していた。いや、僕はね……と云いかけたところで、僕の低すぎる知能に電流走る。
 ウワァァ──────────ッッ!!
 とかいうふうに喉を荒らした僕に驚きを示したのは妹だけで、といっても妹は妹じゃない。つまり芋である。というのは冗談で(僕は他人と会話するのも自分語りするのも恥ずかしくて難しいのです)、彼女はある女の子の妹ちゃんである。
 僕は彼女にことあるごとに中卒であることを煽られ罵られ、たぶんというか絶対、見下されていた。そんな目をしている。僕はそんな目から逃れるように足をぺたぺた踏み鳴らしながら逃げる。本当に逃げたい。
「逃げてもいいんだよ」
「エッ!」
 転げた。転生しても人生は好転しないだろう僕の阿呆知性は世を治めることも夜を統べることもできずに地獄に不時着する。そして燃え上がり、その機体はきっと大破する。

 話はくるりと変わるけど許して。読者。
 僕はとにかく臆病なチンチラみたいなリスみたいに臆病で、だからとにかくすぐに腹痛に苛まれて便所に隠れるような卑怯者なんです。許して。
 幼馴染は今高校に通っていて、偏差値は? と恐る恐る訊くと、「50」と返ってくる。
「へー😏 なかなかいんじゃない?」
「……」
 彼は短い沈黙ののち、鋭い電動シェーバーみたいな声を発して僕を威嚇する。もしくは勝手な妄想かも。アチュー!
「こ、こわい……」
「や、やめて……」
「こわい、こ、こっ……」
 幼馴染にも妹がいて、その数は三人。でも面白いことに、全員が全員、佐藤友哉という30代無職の男にレイプされて首を吊ってしまう運命にある。それを僕は変えなくてはならない。そんな気がしている。そうすべき。
 そうなのかな? と云うと、彼は「当たり前やろボケ殺すぞ。俺の妹が死んでもええんか?」と熱い鼻息を吹くから僕は思わず吹き出し、「必死やなあ……」とにやけてしまう。

 テレビをもっている家庭が3割を下回り、そうなってしまった1990年のこと。僕は幼馴染と一緒に近所の銭湯に行き、舐め合った。云うまでもなく破廉恥だと思いながら、僕は確かにひどく興奮していた。そのことだけはのぼせ切った頭でも理解できていた。
 フリーマンのソフビが発売されてその直後に日本人の自爆テロが話題になる。けど僕はどうでもいい気持ち。そのとき佐藤友哉は小学生で、僕は中卒したばかりだった。そうだと思うけど、もしかしたら全然異なる世界に僕は転移しているのかもしれない。

 涼しい風が空を泳いでいる夜のこと。僕はたった独りぼっちでぽつぽつの街灯の下をそろりと歩いていた。そろりそろりと足を進めるたび、虚しい気持ちでいっぱいになる。そうなるべくしてなったような涼しい夜だったから、涼しい風は女房だった。
 Twitterではフェミニストとファシストがプラグマティズムについて激しく議論していたし、その意味も知らない僕はその喜劇をぼんやりと眺めて時間を浪費していた。虚しかった。ほんとに。
『明日の天気は何だろな〜〜』
「雨だと思うよ」と僕は呟いた。
 その声は僕以外知らず、実は僕……昔はもっと長い長い名字をもっていたんだけどまったく今は思い出せないんだってことを思い出す。

 2008年生まれのとある少年の飼っている猫がいて、名前は「サッちゃん」というんだけど、彼女はメスだ。メスはオスに犯される運命にあることを僕は嘆く。涙を流すまではいかないけど、その嘆きは海を真っ二つに割ってしまいそうだった。そう思っている。
『明日の天気は何だろな〜〜…………んー? 君は何だと思うかな〜〜??』
 お天気お姉さんに指名された少年2人は慌ただしく右手と左手を組み合わせたり両足をリズミカルに鳴らしたりしながらくんずほぐれつしていたけどやがて、『んー? 君たちじゃないよ〜……。あのね、君たちじゃないの。分かる??』というお姉さんの不機嫌そうな声を無視して少年2人はずっとずっと好きだった相手に告白するみたいに全身を激しく動かし、その結果として2人はお姉さんの両目から放たれたビームに灼かれて死亡した。

 そんな事件は、日本人による自爆テロなる大事件に飲み込まれて世間の目に触れることは永久になかった。でも永久の平和が存在しないように、お姉さんの目からビームが日の目を見る日がいつかは来るかもしれない。

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