マッチ箱に残されたメモリー 10.
茅場町 長寿庵
日本橋茅場町、日本の金融の中心地兜町の隣接地にあった。
証券会社のビルが立ち並ぶ中だったが、まだ江戸情緒の匂いを残す下町の雰囲気もあった。
その茅場町の交差点の一角を占めていたのが、この老舗蕎麦屋の長寿庵だった。
下町然としたその佇まいは、蔦の葉の緑が絡まる木造モルタルの二階家で、入り口は格子ガラス引き戸が左右に二か所、入れば手前に四人掛け卓が十か所程度で、奥に四卓の小上がりがあった。
よほどの外れた時間であっても、閑散としていたことはなく、ピークでなくても相席は当たり前、四人でいっても、四人別々の卓というのもあり得た。
差し出し口から覗ける調理場では、いかにも職人といた老齢の調理人が、湯気の中で忙しく立ち働いていた。
品書きも、すでに他の店では滅多にお目にかかれなかった「釜揚げうどん」や「蕎麦がき」などがあった。
まだ陽が陰るにはだいぶ間のある時間、目を細めながら蕎麦がきを醤油につけて口に運ぶ、あるいは盛り二枚を頼み泰然と熱燗を傾ている様子も、ここならではの景色だったろう。
夕刻過ぎともなれば、やはりサラリーマンの街らしく、ネクタイを緩めて談笑する人たちの姿で占められていた。
板わさ、油揚げを焼いたもの、玉子焼き、串など刺さないで焼き上げた焼き鳥などなど、おおよそ蕎麦に載せる種物は、酒の肴として登場していた。
小上がりの中ほどにあった柱に、浮世絵の額が一枚かけてあった。
おそらく、歌舞伎の一場面だったのだろうか、隈取の入った侠客姿が、威勢よく啖呵をきっているらしいアップのその足元の背景に、大きく「二八そば」の提灯が描かれていた。
「やっぱり、江戸っ子の蕎麦は二八だったんだ」
と、半蘊蓄と重なって、私はまったく見当違いの理解をしていた。
しかし、女々しい言い訳をさせてもらうと、その頃幅を利かせていた蕎麦通の決まり文句は、「蕎麦は何て言っても蕎麦粉百パーセント、十割蕎麦だ。つなぎを入れた二八蕎麦なんかは、蕎麦じゃない」と、よく聞かされていた。
品書きにも、「十割蕎麦」「二八蕎麦」などと掲げていた店もあった。
かなり経ってからだったが、「蕎麦の歴史」関連の書籍に出会い、私の大いなる勘違いを知ることになる。
浮世絵が描かれた時代の「二八」と現在の「二八」は、まったく意味が違っていた。
このお店には、娘さんが二人いた。
初めて見かけたときは、まだ二人ともセーラー服のよく似合った中学生だったように記憶している。
それからしばらくは、その姿を見た記憶はなく、どのくらいだったのだろうか、気が付いたときは、妹さんの方が、子供を抱いて里帰りしている光景だった。
お姉さんの方は、その後もお店の手伝いで、常連の端くれであった私たちとも顔なじみであった。
老練の職人さんたち、強者ぞろいとみていたパートのお母さんたちの中にいて、いつものほほんと(だったは、わからないが)笑顔を振りまいていた。
「いつお嫁にいくだろう」と要らぬお世話を口する連中もいたが、「どこぞの老舗のおかみさんにおさまった」という話を聞くことになった。
そう考えると、「よくぞ通ったもの」だったが、会社の移転で新川を離れるまで続いていた。
移転直前の頃だったろうか、バブルの終焉期だったが、老舗然とした店は取り壊され、八階建てのオフィスビルに様変わりしていた。
お店は、地下一階に入り、すっかり現代的な高級和風料理店といった装いになっていた。
