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ほどけなかったのは、あの朝の『ごめん』だった

保育園のころ、息子はなんでも「じぶんでやる」と言ってきた。

靴を履くのも、ズボンをはくのも、ごはんを食べるのも。
上手くいかずに泣いて、それでも「じぶんでやる」。

その言葉がどこで覚えたのかはわからないけど、
言うたびに胸を張っていて、僕は少しだけ笑ってしまうこともあった。


ある朝、時間がなくてイライラしていた。

「じぶんでやるよー」と声が聞こえたけど、
こっちはすでに遅刻ギリギリだった。

玄関に来た息子は、靴のかかとを踏んだまま、しゃがみこんでいた。
右足がうまく入らず、何度もつっかえていた。

僕は時計を見て、ため息をついた。
そして、無言で息子を抱き上げ、靴を無理やり履かせた。

「だから言ったやろ、時間ないんやって」

マジックテープをバリッと締める音が、朝の静けさにやけに響いた。
そのとき、まだ息子の指が、つま先に添えられていた。

「もう、自分でできるって言うなや」と、つい言ってしまった。


泣き出した息子の手を引いて、そのまま玄関を出た。

小さなスニーカーが、乾いた音を立てながら僕の横を歩いていた。
その手は、ほんのりと汗ばんでいて、何度か振り払われそうになった。

無言で保育園まで歩く道。
息子はずっと下を向いていて、僕はなぜか、その顔を見られなかった。

僕が何に怒っていたのか、もう自分でもわからなかった。
イライラではなく、うまくできない息子ではなく、怒ってしまった自分に腹を立てていた。


あとで妻から聞いた。

着替えさせながら、ぽつりとこう言ったらしい。

「……じぶんで、やりたかっただけなのに」


それから十年近くが経った。

今朝、制服に着替えた息子がリビングを通り過ぎていく。

もう僕より背が高い。
ソファで靴下を履きながら、髪を手で整えて、無言で玄関に向かった。

玄関ドアのすき間から差し込む朝日が、
リュックの反射テープを一瞬だけ光らせた。

「いってらっしゃい」

そう声をかけたら、ほんの一瞬だけ振り返った。
でも何も言わずに、玄関の戸を閉めた。

その音が、やけにゆっくりと、やさしく響いた。


あとに残ったのは、僕と、食卓に立ちのぼる湯気と、
小さな手を払いのけた、あの日の記憶だった。


あのときの「じぶんでやる」は、
もう、全部できるようになっていた。

今はもう、何も言わなくていい。
もう、手を出さなくていい。

でも、あのときの「ごめん」は──
ほどけなかったまま、僕の胸に残った。


『白衣のすきまから』へようこそ

この物語は、実体験をもとにしたフィクションシリーズの一編です。
家族のこと、患者との記憶、誰にも言えなかった夜勤のこと──
他のエピソードも、ぜひ読んでみてください。

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