【短編小説】鏡の向こうの平和
八月五日。
セント・ファルシオ女学院の国際交流室では、夏季特別講座「安全保障と平和を考える」の準備が進められていた。
高瀬ミライは、机いっぱいに広げた新聞記事と地図を交互に見つめていた。
東アジア。
ウクライナ。
イラン。
台湾海峡。
地図の上では遠く離れた場所に見える。
しかし、一本一本の赤い線を引いていくと、軍事基地や同盟、貿易、エネルギーを通じて日本ともつながっていた。
「難しい顔をしてるね」
喜里島ハルが、冷たい麦茶を二つ持って入ってきた。
「ありがとう」
ミライはコップを受け取り、記事を指さした。
「安全保障環境が厳しいから、軍事力をもっと強くする必要があるって書かれているの」
「でも、それだけを読んでいると、世界中が敵だらけみたいに見えてくる」
そこへ白峰ユキと朝霧ヒビキもやって来た。
ユキは記事を読み、眉を寄せる。
「ロシアの侵略は国際秩序への挑戦として厳しく批判している」
「だけど、アメリカがイランへ先制攻撃したことについては、ほとんど評価していないんだね」
ヒビキが首をかしげた。
「同じように国際法を破る行為なら、相手が誰であっても批判するべきじゃないの?」
「そう思う」
ユキは答えた。
「法の支配を守ると言いながら、同盟国の行動だけは問わない。それでは、原則ではなく都合になってしまう」
ミライは地図の端に、二つの言葉を書いた。
価値観。
利益。
「国と国が協力すること自体は大切だと思う」
ミライは言った。
「でも、『友達だから正しい』と決めてしまったら、その国が間違ったときに止められなくなる」
ハルが静かにうなずいた。
「人間関係でも同じだね」
「本当の友達なら、危ないことをしているときに止めるはず」
四人は、午後の講座で参加者へ投げかける問いを考え始めた。
最初に出たのは、
「強い武器があれば、戦争は防げるのか」
という問いだった。
ヒビキがホワイトボードへ書きながら言う。
「抑止力って、相手に『攻撃したら反撃する』と思わせることなんだよね」
「うん」
ユキが答える。
「でも相手も同じことを考えて軍事力を増やしたら、こちらはさらに増やすことになる」
ミライが赤いマーカーで矢印を描く。
軍備増強。
相手の警戒。
さらなる軍備増強。
その矢印は円になった。
「出口がないね」
ハルがつぶやいた。
「みんな、自分を守ろうとしているのに、どんどん危険になっていく」
講座の時間になると、十数人の生徒が国際交流室に集まった。
ミライは、最初に一枚の写真をスクリーンへ映した。
向かい合う二つの国の軍艦。
空には戦闘機。
海にはミサイルを搭載した艦船。
「この写真を見て、どう感じますか」
一人の生徒が答えた。
「怖いです」
別の生徒は、
「でも、相手が武器を持っているなら、こちらも持たないと危険なんじゃないですか」
と言った。
ミライは否定しなかった。
「そう考える人がいるのは自然だと思います」
「では、相手側から見たらどうでしょう」
会場が静かになる。
「相手も、こちらの軍備を見て怖いと思うかもしれない」
一年生が答えた。
「だから相手も武器を増やす」
ユキがうなずく。
「その繰り返しを、安全保障のジレンマと呼ぶことがあります」
「自分を守るための行動が、相手の恐怖を高め、結果として自分も危険になる」
ヒビキは、次の資料を映した。
そこには、国際会議の円卓が写っていた。
国旗の前に座り、通訳を介して言葉を交わす人々。
「軍事力以外に、国を守る方法はないのでしょうか」
参加者から意見が出る。
「外交」
「国際法」
「経済協力」
「文化交流」
「首脳同士が話すこと」
「市民同士の交流もあると思います」
ミライは一つひとつ書き留めた。
「外交は、相手の言うことを何でも受け入れることではありません」
「問題があるときは、はっきり批判する」
「同時に、戦争にしないための道を探し続ける」
「力で従わせるのではなく、合意できる部分を増やしていくことです」
すると、後ろの席にいた生徒が手を挙げた。
「でも、中国が台湾へ軍事的圧力をかけているなら、日本も備える必要があるんじゃないですか」
ミライは少し考えた。
「中国が武力で威嚇することは認められないと思います」
「ただ、だからといって第三国が軍事介入を当然の前提にすれば、緊張はさらに高まります」
ユキが続ける。
「どちらか一方だけを無条件に支持するのではなく、すべての当事者へ武力行使をやめるよう求める」
「それが、国際法を一貫して守る立場だと思う」
講座が終わった後も、数人の生徒が残った。
「安全保障って、軍事の話だけじゃなかったんですね」
「ニュースを見ると、敵か味方かで考えてしまっていた」
「同盟国にも間違いがあるって言っていいんだ」
そうした感想を聞きながら、ヒビキが微笑んだ。
「大きな声に流されず、自分で考えることも平和を守る力なのかもしれないね」
夕方。
四人は校舎の屋上へ上がった。
遠くに横浜港が見える。
さまざまな国の旗を掲げた船が、静かに行き交っている。
貨物船。
旅客船。
漁船。
海上保安庁の船。
国境を越えて物や人を運ぶ海は、軍艦だけのものではない。
「日米同盟を強くすれば、平和になる」
ハルが記事の言葉を思い返すように言った。
「そんなに単純じゃないんだね」
「うん」
ミライは答えた。
「同盟は道具であって、目的じゃない」
「目的は、人々が戦争に巻き込まれず、安心して生きられること」
ユキは手すりに両手を置いた。
「どんなに強い国でも、国際法を破れば批判されなければならない」
「それができなければ、『法の支配』という言葉そのものが空っぽになる」
ヒビキは港の汽笛に耳を澄ませる。
「相手を怖がらせる大きな音より」
「話し合う声が届く世界がいいな」
ミライはバッグから、小さな丸い鏡を取り出した。
外交活動のとき、自分の表情を確認するために持ち歩いているものだった。
鏡には、夕日に照らされた四人の顔が映っている。
「敵だけを見ているつもりでも」
ミライは言った。
「私たちは、いつの間にか自分たちの恐怖を相手へ映しているのかもしれない」
「鏡の向こうにいるのも、同じ人間なんだよね」
ハルが答えた。
家族がいる。
守りたい暮らしがある。
戦争を恐れる気持ちがある。
政府の決定と、そこで暮らす人々の願いは同じではない。
「だから外交が必要なんだ」
ミライは鏡を閉じた。
「相手を美化するためじゃない」
「何を考えているのかを知り、誤解を減らし、武力に頼らない出口を探すために」
四人は夕暮れの海を見つめた。
軍事力に軍事力で応え続ける道。
その先にあるのは、終わりのない競争と、偶然の衝突への恐怖かもしれない。
けれど別の道もある。
国際法をすべての国へ等しく適用すること。
同盟国の違法な行動にも沈黙しないこと。
対話の回路を絶やさないこと。
核兵器や軍事基地ではなく、人々の信頼と協力を積み上げること。
平和は、強い国の陰に隠れて与えられるものではない。
何が正しいのかを自分で考え、味方の過ちにも目を閉じず、敵と呼ばれた相手とも対話を続けることで築かれる。
ミライはノートの最後に、今日の結論を書き込んだ。
「平和を守るとは、誰かの力へ無条件に従うことではない。すべての国に同じ原則を求め、戦争へ向かう悪循環から抜け出す道を探し続けること。」
夜の港に、船の明かりが一つずつともり始めた。
それらは軍事同盟の境界線ではなく、人と人をつなぐ航路を照らしているように見えた。
四人はその光を見つめながら、恐怖を映し合う鏡の世界ではなく、互いの声を聞き合える未来を選びたいと、静かに心へ誓った。
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