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【短編小説】知ることから、平和は始まる

八月最初の朝。

夢の島公園には、夏の日差しが容赦なく降り注いでいた。

蝉の声の向こうに、白い建物が見える。

東京都立第五福竜丸展示館。

「……ここなんだ」

海風ソラが足を止めた。

隣を歩いていた白峰ユキは、入口でもらったパンフレットに目を落とす。

「写真では何度も見た。でも、実物を見るのは初めて」

朝霧ヒビキは何も言わなかった。

三人はセント・ファルシオ女学院の夏季自主学習として、平和について調べていた。今日は高校生の平和学習グループの見学会に参加させてもらっている。

館内へ入る。

そして三人は、言葉を失った。

巨大な木造船が、目の前にあった。

第五福竜丸。

一九五四年三月一日、太平洋のビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被ばくした漁船。

教科書なら数行で終わる出来事だった。

けれど、その船が目の前にある。

木の板。

船体の傷。

かつて海を渡った船の形。

そこには確かに、人間が乗っていた。

「これで……海に出てたんだよね」

ヒビキが小さく言った。

「うん」

ソラが答えた。

いつもの明るい声ではなかった。

学芸員の説明が始まる。

乗組員たちは遠洋漁業に出ていただけだったこと。

突然、空が異様に明るくなったこと。

しばらくして白い灰が降り始めたこと。

そして乗組員たちが被ばくしたこと。

第五福竜丸の乗組員は、ほとんどが若者だった。

説明を聞きながら、ヒビキは自分の手を見た。

自分たちと、それほど遠くない年齢。

友達と笑ったり、将来について話したり、家族のことを考えたりしていたはずだ。

その日常へ、核実験が突然入り込んだ。

「怖いね」

ヒビキが言った。

ユキが振り向く。

「核兵器が?」

「それもある。でも……普通に暮らしていた人が、本人の意思とは関係なく巻き込まれることが」

ユキはしばらく黙っていた。

やがて手帳に一行を書いた。

――被害者を数字だけにしない。

三人の近くでは、参加している高校生たちも熱心にメモを取っていた。

「教科書で読んだときとは全然違う」

そんな声が聞こえる。

別の生徒が言った。

「なんでアメリカは責任を取らなかったんだろう」

すると、さらに別の生徒が続けた。

「日本政府は、どう対応したの?」

問いが次々に生まれていた。

ヒビキはその様子を見つめた。

誰かに答えを教えられているのではない。

目の前のものを見て、自分で疑問を持っている。

「ユキ」

「なに?」

「これが、勉強なのかな」

ユキは少し考えてから答えた。

「私は、そう思う」

「年号を覚えるだけじゃなくて?」

「年号も大切。でも、その出来事がなぜ起きたのか。その後どうなったのか。そして今の社会とどうつながっているのか。そこまで考えて初めて、自分の知識になるんじゃないかな」

ソラが第五福竜丸を見上げながら言った。

「そして、次に起こさないために使う」

二人がソラを見る。

「沖縄でも同じだから」

ソラは続けた。

「戦争の話をすると、『昔のことでしょ』って言われることがある。でも、基地も軍事訓練も、今そこに暮らしている人の問題なんだよ」

第五福竜丸も同じだ、とソラは思った。

これは過去を保存しているだけの船ではない。

核兵器が今も世界に存在する以上、この船が問いかける問題は終わっていない。

見学の最後に、高校生同士で感想を話す時間が設けられた。

最初は誰も手を挙げなかった。

少し重い沈黙。

ヒビキは迷った。

こういうとき、以前の自分なら黙っていた。

目立つのは苦手だった。

間違ったことを言ったらどうしよう。

そんな不安がいつも先に立った。

でも、今日は違った。

ヒビキはゆっくり手を挙げた。

「私は……」

みんなの視線が集まる。

少しだけ声が震えた。

「今日まで、第五福竜丸のことを『知っている』と思っていました」

一度、船を見る。

「でも、実物を見て、乗っていた人たちのことを聞いたら、全然知らなかったって気づきました」

誰かがうなずいた。

「平和って、『戦争はいけません』って覚えることだけじゃないと思います。どうして戦争が起きるのか、核兵器を誰が持っているのか、政府がどんな政策を進めているのか……そういうことも知らなきゃいけない」

ヒビキは一度息を吸った。

「そして、おかしいと思ったら、おかしいって言っていいんだと思います」

館内が静かになった。

「私たちは高校生だけど、社会と無関係じゃない。十八歳になれば選挙にも行く。でも、そのとき突然、政治について考えろと言われても難しいと思うんです」

ユキが微笑んだ。

ソラもうなずいている。

「だから、今から知る。友達と話す。違う意見も聞く。そして自分で考える。それも平和をつくることなんじゃないでしょうか」

拍手が起きた。

大きな拍手ではなかった。

けれど、ヒビキには十分だった。

帰り道。

三人は夢の島公園を歩いていた。

「ヒビキ、すごかった」

ソラが言う。

「途中から声、震えてなかったよ」

「ほんと?」

「うん」

ユキが手帳を開いた。

今日書き込んだページには、たくさんの言葉が並んでいる。

核兵器。

ビキニ環礁。

第五福竜丸。

被ばく。

責任。

平和教育。

主権者。

そして最後に、大きく囲んだ言葉があった。

「知る権利と、考える力。」

「学校でもやらない?」

ユキが言った。

「何を?」

「今日見たことを伝える展示」

ソラの顔が明るくなる。

「いいね。第五福竜丸だけじゃなくて、広島、長崎、沖縄、それから世界の核兵器についても調べようよ」

「でも」

ヒビキが言った。

「私たちが答えを決める展示にはしたくないな」

ユキがうなずく。

「問いを置く?」

「うん」

三人は考えた。

そしてヒビキが言った。

「『あなたは、どんな未来を選びますか』」

しばらく沈黙したあと、ソラが笑った。

「それがいい」

夏の青空が広がっていた。

八月。

戦争と核兵器について語られることの多い季節。

けれど、それは過去を懐かしむための季節ではない。

知らなかったことを知る。

疑問を持つ。

調べる。

誰かと話す。

そして、自分の意思で未来を選ぶ。

第五福竜丸は、何も語らず展示館に立っている。

それでも三人には、その古い船体から一つの問いが聞こえてくるような気がした。

――あなたたちは、この歴史を知ったあと、どうしますか。

ヒビキは振り返らなかった。

答えは、もう決まっていた。

知り続ける。

考え続ける。

そして、声を重ねていく。

平和は、誰か偉い人から与えられるものではない。

一人ひとりが主権者として学び、考え、選び取っていくものなのだから。

八月の強い光の中を、三人は歩いていった。

まだ知らないことを知るために。

そして、自分たちの未来を、自分たちの手で選ぶために。

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