【短編小説】名前をつなぐ朝
八月六日の朝。
広島の空は、雲ひとつない青に包まれていた。
平和記念公園には、早い時間から多くの人が集まっている。
黒い服を着た遺族。
白い帽子をかぶった子どもたち。
外国から訪れた人々。
そして、静かに手を合わせる若者たち。
喜里島ハルは、綴木シオン、朝霧ヒビキとともに、原爆死没者慰霊碑の前に立っていた。
三人は前日のうちに広島へ入り、資料館を見学し、被爆者の証言を聞いていた。
それでも、八月六日の朝にここへ立つと、昨日とはまったく違う空気を感じた。
「この場所に、たくさんの名前が眠っているんだね」
ヒビキが小さく言った。
慰霊碑の向こうには、原爆ドームが見える。
その間に納められている原爆死没者名簿。
そこには、被爆によって亡くなった一人ひとりの名前が記されている。
「数字じゃなくて、名前」
シオンがつぶやく。
「名前があるっていうことは、その人に人生があったってことだよね」
ハルは静かにうなずいた。
家族がいた。
友人がいた。
好きな食べ物があった。
将来の夢があった。
誰かに呼ばれていた名前があった。
その一つひとつを、後世へ残すために記帳する人がいる。
今年、その役割を初めて公募された若い世代が担ったと聞いて、三人は強く心を動かされていた。
式典が始まるまでの間、三人は平和記念資料館近くのベンチに座った。
シオンは小さなノートを開く。
表紙には、
「受け取った言葉」
と書かれていた。
前日に聞いた証言や、資料館で目にした言葉を記録したものだった。
「昨日のガイドさんが言っていたよね」
シオンがページをめくる。
「記憶は、語らなければ消えてしまう。でも、語るだけでは足りない。受け取る人が必要だって」
「受け取った人が、次へ渡す」
ハルが言った。
「そうやって、記憶はつながっていくんだと思う」
ヒビキは慰霊碑の方を見つめた。
「でも、受け取るって難しいね」
「どうして?」
「話を聞いて、悲しかった、怖かったで終わるんじゃなくて、そのあと自分がどうするかまで考えなきゃいけないから」
ハルはその言葉を胸の中で繰り返した。
知ったあと、どうするか。
これまで何度も仲間たちと語り合ってきた問いだった。
やがて、近くにいた年配の女性が三人へ声をかけた。
「高校生さん?」
「はい」
女性は広島に住み、長く平和記念公園の案内をしているという。
「今日は式典に?」
ヒビキが尋ねる。
「ええ。父の名前も名簿に入っています」
三人は静かに姿勢を正した。
女性は遠くを見るように話し始めた。
「父は十二歳で被爆しました。大やけどを負って、背中にはずっと傷が残っていました」
「それでも、戦争の話をあまりしなかったんです」
「話したくなかったのでしょうか」
シオンが尋ねる。
「そうかもしれません。でも晩年になると、何度も言うようになりました」
女性はゆっくりと続けた。
「戦争はいけん。原爆はいけん。何度も何度も」
その言葉は、特別に飾られていなかった。
短く、素朴で、まっすぐだった。
だからこそ、三人の胸へ深く届いた。
「父が亡くなったあと、私はガイドを始めました」
「父が話しきれなかったことを、少しでも次の世代へ渡したいと思って」
「怖くありませんでしたか」
ヒビキが尋ねた。
「何が?」
「忘れられてしまうことが」
女性は少し考え、柔らかく笑った。
「怖かったですよ。でもね、今日みたいに若い人が来てくれると、まだ大丈夫だと思えるんです」
その言葉に、ハルは胸が熱くなった。
「私たちも、何かできるでしょうか」
女性は三人を順番に見つめた。
「まず、名前を覚えてください」
「名前?」
「被爆者、犠牲者、死没者。そういう大きな言葉だけではなく、一人ひとりに名前があったことを忘れないでください」
女性は続けた。
「そして、身近な人と話してください」
「平和って何だろう」
「核兵器は本当に必要なのか」
「戦争になりそうなとき、私たちはどうするのか」
「難しい言葉でなくていいんです」
「考える人が増えること。それが一番大切です」
式典の開始を告げる放送が流れた。
女性は三人へ会釈し、遺族席の方へ歩いていった。
ヒビキは、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
「声を残すって、放送することだけじゃないんだね」
「うん」
ハルが答えた。
「聞いた人が、忘れないことも大事なんだ」
式典が始まる。
原爆死没者名簿が奉納される。
黙とうの時間。
午前八時十五分。
公園から、街の音が消えた。
車の音も。
話し声も。
足音も。
すべてが止まり、蝉の声だけが響いていた。
ハルは目を閉じた。
資料館で見た弁当箱。
破れた服。
三輪車。
昨日出会った遺品の持ち主たち。
今日奉納された名簿の名前。
そして、まだ自分の知らない無数の人生。
一分間は短かった。
けれど、ハルには長く感じられた。
目を開けると、隣でヒビキが涙をぬぐっていた。
シオンは、両手でノートを抱きしめている。
「私」
ヒビキが声を震わせた。
「帰ったら、校内放送で話したい」
「今日見たことを?」
「うん。でも、自分の感想だけじゃなくて、聞いてくれた人が考えられるようにしたい」
シオンもうなずく。
「私は、名前を記録する展示を作りたい」
「名前?」
「犠牲になった人数だけじゃなくて、残された手紙や写真から、一人ひとりの暮らしが見える展示」
「その人が何歳で、何が好きで、どんな家族と暮らしていたか」
ハルは二人の言葉を聞きながら、自分にできることを考えた。
詩を書く。
歌にする。
語る。
聞く。
どれも、小さなことかもしれない。
それでも、何もしなければ記憶は遠ざかっていく。
やがて戦争を体験した人がいなくなる日が来る。
だからこそ、受け取った世代が新しい形で伝えていかなければならない。
式典が終わったあと、三人は対話ノートの置かれた場所へ向かった。
世界中の言葉で、平和への願いが書かれている。
ヒビキは、
「聞いた声を、次の人へ届けます」
と記した。
シオンは、
「一人ひとりの名前と人生を、数字の中へ消しません」
と書いた。
最後にハルがペンを持った。
しばらく考え、ゆっくりと文字をつづる。
「受け継ぐとは、昔の悲しみを覚えるだけではない。誰かの明日が再び奪われないよう、今を変えようとすること。」
三人は並んで、その言葉を見つめた。
広島の空は、朝と変わらず青かった。
けれど、その青さはもう、ただ美しいだけのものには見えなかった。
平和な空を守るために、何人もの人が声を残し、記録を守り、語り続けてきた。
今日、その思いを自分たちが受け取った。
「帰ろう」
ハルが言った。
「うん」
「帰って、伝えよう」
三人は平和記念公園を歩き始めた。
背後には、原爆ドーム。
前には、現在の広島の街。
路面電車が走り、人々が働き、子どもたちが笑っている。
失われた命が生きられなかった未来を、今の自分たちは歩いている。
その事実を忘れずに。
名前を一つひとつ呼び返すように。
少女たちは、受け取った記憶を胸に抱き、次の世代へ手渡すための最初の一歩を踏み出した。
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