カインの末裔をさがしている
「共感させると売れる」という話を読んで、なんだかなあ、と思った。
共感を狙って書く、共感されやすい構造にする、共感ポイントを散りばめる。そういうことを真顔で語るコンテンツが、noteには多い。
なんだよ、それ、と思う。読者を感情で釣っているだけじゃないか、と。
ところが、自分のnote読書を振り返ってみたら、格好悪いことに気がついた。
自分は、同じ匂いのする人の記事を好んで読んでいる。
テーマが近いとか、文体が好きとか、説明のつく理由もある。でも、それが一番の理由ではないことが多い。物事の感じ方、世界との接し方、透けて見えるコミュニケーションの仕方——そういうものが文章ににじみ出ていて、そこの匂いを嗅いでいる。
「共感で釣る」のを批判しておきながら、自分も、どこか自分に似た同類を探して読んでいる。
しかも、その根っこをたぐっていくと、ああ、自分は孤独だと思っているんだな、という気持ちが見えてしまい、さらに格好悪かった。
感情で釣られたいのだ。
学生時代に、有島武郎の『カインの末裔』を読んだ。
主人公の仁右衛門に強く共感した記憶がある。当時の自分は、自分が他人とは違う存在だという意識が強くて、どこにも属せないような感覚があった。その感覚が仁右衛門に重なった。
先日、内容を確認してみたら、仁右衛門は横暴で自分勝手な農夫で、暴力をふるい、博打をし、子どもを失い、馬を失い、最後は住処に火を放って北海道の荒野に消えていく話だった。自分が勝手に重ねていた「同じ印を持つ者がさまよう」というイメージは、ほぼ読み違えだった。
でも、タイトルの理解は正確だった。
「カインの末裔」——神に追われた放浪者の子孫。どこにも定着できない、何かを背負って生きている人間。
その概念に、ストーリーではなく空気に、自分を重ねていた。
若い時に感じていた、自分はどこか他人と違うという意識は、今でも全く変わっていない。結婚して子供がいて、外から見れば、幸せに暮らしているように見えるだろう。でも、意識のどこかでは、どこにも属していない感じがいつもある。
こういう扱いづらい自分は気に入らない。他方で、自己愛が強いことも自分で知っている。そして、どこかにいる自分と同じようなカインの末裔を探し続けている。連帯して孤独を紛らわしたいのだろう。
この行動を、少し構造として見てみると、こういうことだと思う。
自分を直接肯定することが難しいとき、同じ属性を持つ他者を通じて、迂回路として自分を肯定する。承認がほしいわけでも、評価されたいというわけではない。ただ、自分みたいな人間が、どこかにいるという確認がしたい。その事実そのものが、孤独を紛らわすのかもしれない。
「共感で売れる」への反発も、結局同じ構造だ。共感を求める人間を批判しながら、自分も共感を求めている。ただ、もう少し屈折した形で。
自己嫌悪と自己愛と、共感への反発が、実は同じ一つのしくみから来ていた。
妻と私はだいぶ違う人間で、真逆なところも多い。でも、私は、妻のどこかに、自分と同じ印があることを感じている。おそらく、妻も、同じように私の中に、妻が求めている印があるのを見ているのだろう。この意味では、お互いに、連帯できる同志を見つけられたといえるのかもしれない。
リアルでは、「同じ匂いかも」と思って近づいたとしても、関係が深まるにつれて、印がないことに気がついてしまう。ズレが見え始め、摩擦が生まれ、最初に感じた「同じ匂い」が間違っていたことが分かる。妻は、その数少ない例外だった。
妻という同志がいるなら孤独じゃないだろ? という疑問がわくと思う。でも、印が同じでも、連帯はできても、孤独が癒し切れないように感じられる。これは、妻側も同じように感じているかもしれない。
夫婦だからと言って、お互いで全部埋めきれるものではない。埋めようとすること自体に無理がある。
こういう構造は、どうしようもないのかもしれない。
noteでは、同じ匂いの有無について、幻想を抱いたままでいられるところがよいのかもしれない。
読む側と書く側という非対称な関係が、ちょうどいい距離を保つ。近すぎると印が見えなくなる。遠すぎると確認できない。noteはその中間の、ちょうどいい焦点距離にある。
その距離が、印を純粋なまま保つ。だから失望しない。
これはこれで、美しい関係だ。
自分の印も、noteでは「透けて見える」ところに置いているように思う。
分かってほしいようで、わかってほしくないというか、わかる人にはわかるようにしているというか。
なんだかんだで、共感が欲しいのだ。
こんな記事書いているし。
なんとも面倒くさいやつである。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします。記事作成の励みになります!