人生は神様からもらったお弁当なのか? エチオピア行って帰って100の疑問!? No.098
私たちはこの世に生まれてきて現在生きている。
別にこういう国でこういう場所でこういう親でこういう身体でこういう頭脳でというのは全て選ぶことができなくて生まれてくる。
ある意味究極のガチャだ。
私は
人生は神様からもらったお弁当のようなものだ
と考えている。
私の考えでは、
テーブルが国や場所、
親は弁当を包むもの、
身体は弁当箱、
頭脳は弁当の中身、
使い方は箸やスプーンの食器である。
そのすべてがバラエティに富んでいる。
全体的にきれいに整っていることも
すべてがちぐはぐなこともある。
命も弁当も共通しているのは
一人に一つであることだ。
私たちは何を与えられるかを選ぶことはできない。
ただ与えられたものをどう使うのかだけは
自分で選ぶことができる。
恵まれた素晴らしいお弁当を気に入らなくて
投げ捨てる人もいる。
粗末なお弁当でも与えられたことに感謝して
きちんと食べきる人もいる。
周りの人の弁当の方が恵まれていると
ずっと妬み続ける人もいる。
周りのことは気にせず自分の持っている弁当を
大切にかみしめて味わう人もいる。
私は人の能力を弁当に例えるなら、
主食はパワーでおかずは得意なことだと思う。
人のお弁当を奪うことはできないが、
おかずの交換はできる。
だから私がエチオピアで行ったのは
お弁当のおかず大交換会だった。
私の特技の美術を配って歩き、
交換でたくさんの温かいものをもらった。
私の考えではおかずは人に配れば増えるのだ。
能力は自分のために使うだけでは
世の役には立たない。
人のために使うことで世界も自分も豊かになれる。
一方的に搾取されるという意味ではなく、
自分の意志で自分の得意なことをして
人に喜んでもらう場合にはそう言える。
日本に帰ってきてこの話をすると、同意してくれる人は多い。日本というテーブルがどれほど恵まれた環境なのかは一度環境の違う国で暮らしてみるとよくわかる。
日本の恵まれた環境で暮らすと、あることやできることを当たり前に思い過ぎているように見える。
白か黒かで決めつけたがり、
完璧でないと意味がないとか、
少しうまくいかないと終わったとか、
ちょっと視野が狭すぎないかと感じる。
普通に生きているだけで十分だと思うのだが。
そんなにいろんなことが人並みでなくてはならないかというと別にそうでもないのだし。
何もかも綺麗に揃った高級幕の内弁当が羨ましいとしても、自分の弁当が肉多めなことも野菜多めなこともあるだろうし、自分の得意分野を活かせばいいのではないか。
私の弁当は明らかにバランスの良い幕の内ではなく
美術教育特化型スペシャルだった。
それ専用のセットだとしか思えない。
私の考えだが、
神様がこんなに多種多様な弁当を持たせて
私たちをこの世に送り出してくれるのは
遠足に行く子供たちを送り出すような気持ち
なのだろう。
いっぱい食べていっぱい楽しんで帰っておいで、
と。
私は自分に与えられたものをきれいに食べきって、
美味しかった、ごちそうさま、楽しかった!
と言って食べ尽くした空っぽの弁当箱で帰りたい。
