「手前に、少し」掌編小説+寸劇 vol.20【夕刊ナツゾラ】(の隅っこ)終わらない境界線と、柿の経済圏
掌編小説「手前に、少し」
七回忌の朝、徹は駅前で花を買った。
菊の匂いが嫌いだった。母も同じようなことを言っていた気がする。あれが部屋に入ると、それが決められたことのように、悲しんでいる顔を全員が順番にする。受け売りの感情のまま、店員の手元に視線を落とした。仏花の束はどれも菊が入っていて、店員は当たり前のように白い包みを差し出した。徹はそれを受け取り、鞄の持ち手と一緒に握った。
鞄には、もう一つ入っている。二週間前に司法書士から渡された封筒だ。相続登記の申請に必要な書類の一覧と、こちらで用意した委任状の見本。
戸籍も入っていた。司法書士が取り寄せたもので、三代分の束になっている。相続人の欄には、徹の名前しかなかった。兄の隆之の名前は、父の戸籍のほうにあった。
姓は、六つのとき母と一緒に変えている。そのことは覚えている。手続きは、それで終わったのだと思っていた。
話を聞いたのは一度きりで、その場では「持ち帰って考えます」と言った。司法書士は慣れた様子で、期限のことを少しだけ説明した。
歩いて十五分。六年前はタクシーに乗った。道は変わっていないのに、途中の家がほとんど建て替わっていた。
角を曲がると、実家があった。
屋根が新しくなっていた。前は黒っぽい瓦だったが、今は濃い灰色の、平べったい材質のものになっている。塀も塗り直されていた。
門の前で、徹は少し立ち止まった。
自分の家だ、と法律上は言える。だが、こういう家だったかどうかが思い出せなかった。
*
「よく来たな」
玄関を開けたのは隆之だった。作務衣のような、動きやすい服を着ている。六十を過ぎて、髪はほとんど白かった。
「屋根、直したのか」
「三年前に。台風でだいぶやられたから」
それだけだった。隆之は花を受け取り、奥へ入っていった。
仏間には、すでに叔母の節子が座っていた。母の妹で、この六年、徹に電話をかけてくる唯一の人間だった。
「徹ちゃん、痩せたんじゃない」
「そうですか」
「お兄さんもね、無理してるのよ。ここ、一人で全部やってるんだから。庭だって、あれ大変よ」
隆之は台所にいて、聞こえていたはずだが、何も言わなかった。
読経は四十分ほどで終わった。僧侶が帰り、三人で茶の間に移った。
節子が煮物の鉢を並べながら、思い出したように言った。
「そういえば徹ちゃん、お兄さんね、お母さんの通院の記録、全部取ってあるのよ。日にちから、いくら払ったかから、ノートに」
徹は箸を止めた。
「よくやるわよねぇ。私なんかとてもできない」
隆之は湯呑みを持ったまま、庭のほうを見ていた。
節子はそれから、近所の誰それが施設に入った話を始めた。
*
その話を最初に聞いたのは、四年前だった。やはり節子からで、電話の途中だった。あのときも、節子は褒めるつもりで言っていた。
徹は電話を切ったあと、しばらく動かなかった。
記録がある、ということの意味を考えた。何のために取ってあるのか。取っておかなければならないと、隆之が思った時期があったということだ。
そしてそれは、いつか誰かに見せるためだ。
見せる相手は、一人しかいない。
*
「この家な」
隆之が言った。庭を見たままだった。
「親父が入ってから、全部やり直したんだよ。風呂も、床も、塀も。俺が中学のときだ。あのとき親父が金を出さなかったら、もう住めなかった」
徹は湯呑みを置いた。
「それは知ってる。でも、もともとは母さんの実家だろう」
「ああ」
「じいちゃんの代からの家だ」
「そうだな」
それで終わった。
隆之は否定しなかったし、徹も食い下がらなかった。ただ、部屋の空気が少しだけ動いて、元に戻った。
節子が「お漬物、持ってくるわね」と立ち上がった。
母が死んでから六年、二人が交わした言葉は、たぶん全部合わせても半日分に満たない。そしてそのうちのいくらかが、いま終わったこのやりとりのような形をしていた。
どちらも嘘は言っていない。だから、どちらも引かない。
*
昼過ぎ、徹は庭に出た。
石灯籠の位置が変わっていた。草は短く刈られている。母がいた頃より、むしろ整っていた。
隅に、焼却用のドラム缶が置いてあった。錆びて、口のところが少し歪んでいる。
覗くと、底に灰が溜まっていた。まだ新しい。雨に打たれていない、乾いた灰だった。
紙を焼いた灰だ。表面に、白い層が薄く浮いている。
徹はしばらくそれを見ていた。
何を焼いたのかは分からない。庭の枯れ葉かもしれないし、古い年賀状かもしれない。この家には、四十年分の紙がある。
ただ、灰の量が中途半端だった。一度に、それなりの厚みのあるものを、まとめて燃やしたように見えた。
縁側から仏間に戻るとき、押入れが半分開いているのが見えた。下の段に、書類ケースが並んでいる。ラベルが貼ってあった。「税」「保険」「修繕」。
一番奥に、もう一つあった。ラベルの面が、壁のほうを向いていた。
徹は押入れを閉めた。
*
帰り際、隆之が茶を淹れた。
「電車の時間は」
「四時半」
「まだあるな」
湯呑みが二つ、卓に置かれた。
隆之は徹のほうに一つを置き、そして置いたあと、指先で、それを少しだけ手前に押した。
一センチにも満たない動きだった。
徹は、それを見ていた。
母がやっていた。人に茶を出すとき、必ずそうしていた。置いてから、指で少し手前に押す。理由を聞いたことはない。癖なのだと思っていた。
そして、自分の家で、妻に茶を出すとき、自分も同じことをしている。
いつからかは分からない。誰から習ったのかも考えたことがなかった。
隆之は自分の湯呑みを取って、何も言わずに飲んだ。見られていたことに気づいたかどうかも分からない。
徹は茶を飲んだ。熱かった。
鞄は、玄関に置いたままだった。
*
駅までの道で、徹は封筒のことを考えた。
期限がある、と司法書士は言った。過ぎれば手続きが面倒になり、金もかかる。それだけの話で、権利そのものが消えるわけではない。
ホームで電車を待つあいだに、鞄を開けた。封筒はそのままの形で入っていた。
徹はそれを閉じた。
*
年が明けて、司法書士から一度だけ確認の連絡が来た。徹は、今回は見送ります、と答えた。
戸籍の取り寄せと、相談の分の請求書が、月末に届いた。金額は思っていたより小さかった。徹はそれを払った。
*
春に、節子から電話があった。近所の誰それの話と、隆之が今年は雪かきを業者に頼んだという話だった。
「あの子も年だからねぇ」
「そうですね」
「徹ちゃんも、たまには顔出しなさいよ」
「はい」
「……そういえばね。お姉さん、最後のころ、何か書いてたのよ」
徹は受話器を持ち直した。
「徹ちゃんに渡すって言ってたのか、お兄さんにだったか。私も見てないんだけどね」
「そうですか」
「もう忘れちゃったわ。年ねぇ」
節子はそれから、近所の話に戻った。徹は相槌を打った。
電話を切って、冷めた湯呑みに手をつけた。
(完)

vol.20【夕刊ナツゾラ】(の隅っこ)終わらない境界線と、柿の経済圏
八月半ば、お盆特有のうだるような暑さが漂う戦略室。俺はデスクで、手早く茹で上げた乾麺の蕎麦を啜りながら盛大にボヤいていた。
夏空:「……あー、しかし最近、世界中で揉め事が多すぎないか? ニュース見てるだけで蕎麦が伸びそうだよ」
室長:「領土、資源、経済、安全保障。いずれも歴史や感情が絡むため、簡単には譲れない問題ばかりですからね」
夏空:「でもさ、どっちも意地張って損するくらいなら、共同で儲ければいいだろ。領土の主張はいったん棚上げして、そこにある資源の実利だけ共同化するんだよ。これぞ究極の平和的解決策だね」
(ガラッ)
節子:「あら夕日ちゃん、お蕎麦? 暑いのに精が出るわねぇ。お盆で仏さんにお供えしたお菓子の余り、持ってきたわよ。…あ、室長さんもこんにちは」
室長:「本日のゲストは、短編小説『手前に、少し』から出張していただいた、主人公・徹の叔母である節子さんです。今日はご近所の噂話を持参していただきました」
夏空:「お菓子の余りって……まあ、もらうけど。で、節子さん、今日はどうしたの?」
節子:「ちょっと聞いてほしいのよ。三丁目の佐藤さんと鈴木さんがねぇ、また揉めてるのよ」
夏空:「また近所の話!? こっちは国際情勢の話してたのにスケールちっさ!」
節子:「ちっちゃくないわよ。あの二軒の境界線に立ってる『柿の木』よ。あれを巡って、もう十年以上揉めてるんだから。佐藤さんは『先祖代々うちの土地に生えてる木だ』って言うし、鈴木さんは『あんたがほったらかしにしてる四十年間、うちがずっと水やって世話してきたんだ』って」
室長:「なるほど。法的な『所有権』と、長年の『実効的な管理実績』の真っ向からの対立ですね。縮尺が違うだけで、本質的には先ほど夏空さんが憂いていた国家間の領土問題と全く同じ構造です」
夏空:「……それ、さっきの俺のアイデアが使えるじゃん!」
俺は持っていた箸をバンと机に置いた。
夏空:「いいか、土地の話をするから揉めるんだ! 境界線は棚上げにする。そして秋になったら柿を共同で収穫して、ジャムにするんだよ!」
節子:「ジャム?」
夏空:「そう! それを売って、売上は町内会に入れる。町内会の祭りや道路整備の資金にすれば、二人は間接的に利益を得る。でも、土地の所有権については一切触れない。どうだ、町内会版Win-Winの『柿経済圏』の完成だ! 見たか、俺の完璧な外交戦略!」
室長:「……素晴らしい。感情論を排し、実利で結びつく。極めて合理的なスキームです」
節子:「それねぇ、町内会長さんも去年、まったく同じこと言ってたわよ」
夏空:「……で?」
節子:「二人とも、ものすごく怒ったわ」
夏空:「なんでさ!」
節子:「佐藤さんは『先祖から受け継いだ土地を、はした金でうやむやにする気か』って言うし、鈴木さんは『四十年世話した俺と、何もしてないアイツを同列に扱うな』って。金の問題じゃないのよ、あそこは」
夏空:「……俺の完璧な経済理論が、メンツと感情であっさり崩壊した……」
室長:「外交交渉において、合理性が必ずしも正解にならないという生きたサンプルですね」
節子:「でね、とうとう二人とも頭にきて、境界線のど真ん中に鉄製のフェンスを建てたのよ」
夏空:「そこまでやる!? 柿のために!?」
節子:「最初は腰の高さくらいだったんだけどね。相手の顔が見えるのが嫌だって、毎年毎年、意地張ってフェンスを高くしていったの。今じゃもう、刑務所の壁みたいにそびえ立ってるわよ」
室長:「……一方が防衛力を高めれば、相手もそれに対抗して壁を高くする。終わりのない軍拡競争の果てです」
節子:「でもねぇ。その立派すぎるフェンスのせいで、お互いの庭の日当たりがすっかり悪くなっちゃって」
夏空:「おい……まさか」
節子:「そう。日陰になっちゃったせいで、肝心の柿の木、すっかり弱って枯れかかってるのよ」
夏空:「本末転倒じゃないか! じゃ、じゃあフェンスを退かすか、もういっそ柿の木を切っちゃえばいいだろ! 原因を根絶するんだよ!」
節子:「それがねぇ。佐藤さんは『先祖の木を勝手に切るな』って言うし、鈴木さんは『俺が四十年世話した木を切る権利はお前にはない』って。フェンスを下げるのも『相手に負けた気がする』って絶対引かないのよ」
夏空:「八方塞がりじゃん!! どうすりゃいいんだよ!」
室長:「非常に、人間らしいですね」
夏空:「お前、絶対他人事だと思って楽しんでるだろ!」
節子:「おまけに二人とも、すっかり口も利かなくなって、昔やってた大根やら野菜のおすそ分けも完全に途絶えちゃったわ」
夏空:「…………」
節子:「最近じゃ、佐藤さんも鈴木さんも腰を悪くしちゃってねぇ。枯れかけた柿の木の手入れどころか、あの高いフェンスのサビ落としすらできなくて、ただただ荒れ放題よ。……あーあ、あそこの柿、甘くて美味しかったのになぁ」
節子はそう言うと、持参したタッパーを開けた。中にはスーパーで買ってきたであろう、市販の沢庵が並んでいる。
夏空:「……結局、意地を張り合ってフェンス高くしてる間に、柿の木も枯れそうだし、二人とも足腰立たなくなって終わりじゃないか」
室長:「見事なまでに、手遅れですね」
節子:「まあ、よそ様のことだからどうでもいいけど。はい、これお茶請け。市販のだけど美味しいわよ」
節子さんに促され、俺は無言のまま沢庵を一つ摘み、ポリッと囓った。
夏空:「……うまい」
室長:「問題は、何も解決していませんが」
夏空:「…………」
(今日のボヤキ:結局、人間って理屈じゃなくて、胃袋とメンツで生きてるのかもしれない。あれ、このご近所トラブル、何かに…)
