大人の体当たり語学、ここに極まる|#読書の秋2025|#語学の天才まで1億光年
「外国語を習得するのに、最も効果的な方法は?」
この問いに対する私の答えは、いつも1つ
「赤ちゃんや幼児が言葉を学ぶように、学ぶ」
赤ちゃんや幼児の頭は、乾いたスポンジのように言葉を吸収していく。
そこに、文法書はない。単語帳もない(フラッシュカードを使っている親御さんはいるけどね)。
「〇〇語は、日本人には難しいのよ云々…」とか、そういう概念もない。
目で見て、耳で聞いて、真似して覚える。
自分の手持ちの言葉を組み合わせ、自分から積極的にコミュニケーションを取る。
私の子どもなんて、1歳半になる少し前までは「どうぞ」と「はいどうぞ」だけで日常生活の90%以上のコミュニケーションをとっていた。
そして、間違えても落ち込まない。直されたことは、貪欲に吸収する。
分からない言葉があったら、その瞬間に尋ねる。
そうやって、膨大なトライアンドエラーを積み重ね、身体で学ぶ。それが語学。
赤ちゃんや幼児は、語学の世界におけるレジェンドなのである。
しかしこれは、大人だとなかなか実践するのが難しい。
赤ちゃんや幼児の頭が乾いたスポンジだとしたら、我々大人の頭は、ところどころ湿っているスポンジ。
このスポンジはくせ者で、年齢が上がるにつれて湿り具合が激しくなり、言葉を吸収しにくくなっていく。
ついでに、今までスポンジの中にとどまっていたはずのものが、勝手に流れ出るか蒸発するかして、どこかへ消えていく。
書いていて悲しくなるけれど、これが現実なのだ。
そして、私たち大人にはなぜか、プライドがある。要するに、失敗するのが怖いのだ。
だから、いざ外国語を話そうとするとモジモジしてしまうし、外国語でメールを書こうと思っても手が止まってしまう。
しかも大人になると、誰かから外国語を学んでいるとき以外では、なかなか言葉の間違いを指摘してもらえない。
コミュニケーションの相手も「まぁどうせ外国人だし、何を言ってるのか分かれば良いわ」ぐらいの期待値しか持っていないし、
心の中ではあざ笑っているかもしれないが、こちらが単語の使い方や文法を間違えたとしても、指摘されることはほとんどない。
後から振り返って「あっ私、さっき話したとき〇〇と△△の文法間違えてたわ…」と気づき、1人赤面反省会を開くことになる。
もっと良くないケースでは、〇〇と△△の文法を間違えたことにさえ、気づかずに終わる。
心に傷がつかないのはある意味幸せなのだけれど、語学力向上という点では宜しくないのである。
私は大学生の頃、英語でしょっちゅう赤面反省会を開いていた。そして最終的には「まぁ仕事はできるかな」ぐらいのレベルになった。
そして時を経たいま、なぜかドイツ語でもっと初歩的な赤面反省会を開く羽目になっている。
英語が通じるのにあえてドイツ語で挑むのは、私がいる場所はドイツ語圏だから。
いくら英語の難易度が高くなかったとしても、ドイツ語ネイティブの人々にとって、英語は外国語なのだ。
彼らが一番自然に自分の思いを表現できるのは、結局のところドイツ語。
私がドイツ語を話すのは、私から彼らへのちょっとした礼儀というわけです。
さて、そんな語学の世界のレジェンドから見事に退化してしまった私たち大人に、希望の光を見せてくれるのが『語学の天才まで1億光年』。
この書籍には、著者が19歳から29歳の10年間、体当たりで語学に挑んだ日々の記録が残されている。
インドでの1人旅の道中、あれやこれや騙され、時には身ぐるみはがされながら実践的な英語を身に着ける。
現コンゴ共和国で「モケーレ・ムベンベ」という怪獣を探すためにフランス語とリンガラ語(ローカル言語)、ボミタバ語(超ローカル言語)を学び、
南米アマゾンに行くためにスペイン語とポルトガル語を学ぶ。
タイのチェンマイ大学で日本語講師になるために、日本でタイ語の集中講座に通い詰め、日本語の教え方について何も学ばないままタイに飛び立ったかと思えば、
ゴールデン・トライアングル(タイ・ラオス・ミャンマーの国境周辺に広がっていた麻薬地帯)の調査を夢見て、チェンマイで知り合ったシャン族からミャンマー語を習う。
そして中国の大連鉄道大学で中国語を学び、その後しばらく東京・チェンマイ・中国を行き来する生活を送る。
その後はチェンマイ郊外に住むワ人から、中国語(の雲南方言)とタイ語を媒介言語として標準ワ語を学び、最後はついにゴールデン・トライアングルの核心部であるミャンマーのワ州へ。
標準ワ語と全く異なる村のワ語に苦しみながら、ケシ畑の草むしりをしたり、村の学校で標準ワ語を教えたりしながら5ヵ月を過ごす。
旅の終わりには見事に「プイ・ティッ・ペン」(村のワ語で、「アヘン中毒者」)になっていたらしい。
一見すると破天荒のように思えるが、その軌跡には語学のエッセンスが詰まっている。
いたずらに言語を学ぶのではなく、「その言語で何をしたいのか」という目的から逆算すること
ネイティブが使う、生きた表現を学ぶこと
学ぶだけでなく、実際に使うこと
文法書に書いてあることよりも、自分が試行錯誤して発見した法則の方が、圧倒的に忘れにくいこと
そして、本気で言語を学びたいのであれば、家庭や仕事や恋愛よりも、語学を優先すること。
著者の10年間は、文法書や単語帳に頼ってしまいがちな私たち大人に、体当たり語学の道すじを示してくれるのである。
私はというと、どうだろうか。
目的意識は持っている。というか、日々巻き起こるあれこれに対処するために学ばざるを得ない。
この前は、子ども習いごとの先生からちょっとした結婚パーティーに招待された。
関連する単語を予習して、出張先の夫から「そのパーティーだったら、たぶん1時間ぐらいで終わる」と言われ安堵して出席し、無事に1時間でパーティーが終わったところまでは良かった。
ただ、帰ろうとしたらその後のイベントにも誘われ、「はいはい」とついていったら最後はなぜか、親族限定の食事会に私たち親子が飛び入り参加することになってしまった(しかも奢っていただいた)。
さすがに空気になるわけにもいかず、手持ちの限られた駒をフル活用し、かつ分からない単語は文脈から推測して、何とか乗り切った。
受講しているドイツ語コースは一人学習用に設計されているが、一応ネイティブの先生と会話する時間が設けられている。
私が住んでいる国はドイツなので、街を歩けばネイティブのドイツ語が行き交う。
親戚に会ったときは、「あなたはいつ働くの?」とチクチク言われながらドイツ語であれやこれやと話をする。
自分で法則を発見した記憶はないが、勉強している過程で急に理解度が深まった瞬間は、何度かある。
つらつらと書いてみるとそれなりに健闘している気もするが、語学を最優先にして生活することは、今のところできていない。
「じゃあ、あなたはnoteで記事を書かないで、ドイツ語を勉強した方が良いのではないですか…?」
ええその通り。そう思った画面の前の皆さんは、正しいです。
でも、私は今からどうドイツ語を頑張っても、ネイティブレベルにはなれない。私は年を重ねすぎたのです。
私はMENSAの会員だけれど、サヴァン症候群ではない。サヴァン症候群の特徴は私には当てはまりません。
サヴァン症候群の方々は、その能力を活かして一度耳にした曲を完全に再現できたり、色々な言語を自由に操ったりできるらしいですね。
私は昔、7ヵ国語を自在に操る研究者の方に会ったことがあります。その方もまた、サヴァン症候群だったのかもしれません。
何が言いたいかというと、私は一般的に見たら天才かもしれないけれど、残念ながら「語学の天才」ではないのです。
だから、私のネイティブ言語である日本語は、たとえ捨てたくても捨てられない。
日本語を捨てたら、私の頭の中で何層にも複雑に重なりあう思考は、外に出られないまま、
私の認知機能が衰えるか私が死ぬかしたときに、私とともに静かに息を引き取るのです。
思考を閉じ込めたままにしておくことは、宝のもち腐れなのですよ。
noteは広い(?)海。
私は「日本語」と書かれたサーフボードを抱え、他の言語ではとても表現しきれないほど入り組んだ思考を今日はどの波に乗せようかと考えながら、
大波小波が絶え間なく押し寄せるnoteという海へ向かうのです。
「きみの能力は社会に還元した方がいい。
このままではもったいない」
ドイツに越して以来、夫から何度この言葉を聞いたか分かりません。
その度に「いやいや別にそんなことはないよ。そういえば、次の出張はいつですか?」
なんて言ってのらりくらりとかわしていたわけですが、
もしかしたら夫は、私以上に私のことを、分かっていたのかもしれませんね。
ある日、朝焼けの中でいつものように波を眺めていたら、どこからか声が聞こえた。
「……ちょっと、最近あなたサーフィンに繰り出しすぎじゃないですか?」
「はい、分かっていますよ」と私は答える。
そして、私は日本語・英語・ドイツ語の3つのサーフボードをズリズリと引きずりながら、
「語学の天才」という1億光年も先のゴールにつながる海沿いの一本道を、生きている間には決してゴールにたどり着けないと分かっていても、今日もまた歩くのです。
「あと何十歳か若かったら、最初からゴールの一歩手前で降ろしてもらえただろうな…」
「違う国の人間として生まれていたら、自転車かバイクか、普通車かスポーツカーに乗れたんじゃないかしら…」
そんな叶わぬ夢がときどき頭をもたげても、現代の技術では、残念ながら過去には戻れない。
私は、ただひたすら、歩くしかないのです。
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