ローマを流れるテヴェレ川の中州、船のような形の聖なる島「ティベリーナ島」
イタリアで3番目に長く水量の豊かなテヴェレ川が、ローマの中心街を蛇行しながら流れる地点に、船のような形をした中州ティベリーナ島があります。

福岡の中洲や大阪の中之島に比べると、とても小さなこのティベリーナ島。けれども、そこに、現在、国立病院があります。車では右岸のみからアクセス可能なこの不便な中州に、なぜ病院が建てられたのでしょうか。それには、古代ローマ時代から続く長い歴史があります。

全長405㎞のテヴェレ川は、古代ローマ以前、境界の役目を担っており、川の右岸(写真左側)はエトルリア人の領土、左岸(写真右側)は後にローマを建国したラテン人等の領土でした。
古代、沖積平野の部分で、この大河を最も安全に渡ることができたのは、このティベリーナ島の地点だったため、ここで民族間の交易が行われ、その集落の交流が後の都市国家ローマの形成につながりました。そして、ローマ時代になっても、そこにはフォロ・ボアリオ(ウシ市場)でき、商業の中心地であり続けました。
また、古代、海から船で直接さかのぼってくることができる最終地点がこのティベリーナ島でもありました。
紀元前510年頃、独裁的な専制君主であった第7代王タルクィニウス・スペルブス(スペルブスとは尊大なという意味)への不満を募らせた民衆が暴動を起こし、王が私物化していた軍神マルスに捧げられた練兵場カンポ・マルツィオで栽培していた大量の小麦の穂をテヴェレ川に投げ入れたことによりティベリーナ島は形成されたという伝説がありますが、実際には土台に火山岩があるようです。
この伝説は、川の神様の加護を得るために、収穫の初物を供犠として捧げ、籠に入れて祝福した後、川に投げ入れるという儀式が古代行われていたことから生まれたようです。
ちなみに、タルクィニウス・スペルブスを最後に、王政時代が終わり、ローマは共和政に移行しました。
そして、紀元前293年、ローマでは疫病が大流行していました。ローマ元老院は、神託詩集シビュラの書を参照し、医学の守護神、ギリシアのアスクレピオスに捧げる神殿をローマに建てることに決めました。そこで、神の彫像をローマに持ち運ぶため、アスクレピオスの聖域であるギリシアのエピダウロスに赴いたところ、神のシンボルとされている大きな蛇が、聖域から現れ、ローマ船の内部に隠れました。これは神のお告げと確信し、疫病が流行中のローマへ急いで戻り、テヴェレ川をさかのぼると、蛇が、まるで神殿を建てる場所を示すかのように、小さなティベリーナ島の中へ入って行きました。
こうして、医学の守護神を祀るアスクレピオス神殿は、このティベリーナ島に建てられることに決まりました。建設作業はすぐに始められ、紀元前289年に完成すると、奇跡のように疫病が収まりました。そして、その後も、神殿には、病人が訪れ、治癒を祈り求める場所となりました。神殿が、病院のような役目を果たしていたことは、現存する請願書や碑文などが証明しています。
この出来事を記念して、紀元前1世紀、ティベリーナ島全体が、当時地中海で使用されていた軍船の姿に作り直され、島の中央にはメインマストに見立てたオベリスクが建てられました。舳先の部分の大理石貼りが、今でも一部残っています。



ローマ時代が終わり、中世前期にティベリーナ島のアスクレピオス神殿は破壊され、998年に神聖ローマ帝国皇帝オットー三世により、その地にサン・バルトロメオ・アル・イゾラ教会が創建されました。

1557年の洪水により修復不可能なほど損害を受けたのち17世紀にバロック様式で再建された。

柱は古代のアスクレピオス神殿で使われていたもの
そして、この教会の祭壇前にある中世の井戸は、古代、病人を治療するために使われた奇跡の水と同じ水源であると言われています。

医学の神アスクレピオスに捧げられた神殿は壊されてしまいましたが、ティベリーナ島には、16世紀にファーテベネフラテッリ病院が建てられ、現在も機能しています。そして、第二次世界大戦中、この病院の医師たちは、架空の感染症「K症候群」の患者がいるとドイツ軍に説明し、ユダヤ人を病院内に匿ったという逸話もあります。
古代ローマの疫病患者が救いを求めて訪れたこの小さな島は、二千年以上を経た現在もなお、病人を受け入れる場所であり続けているのです。
ティベリーナ島は、左岸と右岸の両方と橋で結ばれていることから、「Inter duos pontes(二つの橋の間)」とも呼ばれていました。

現存する最も古いローマの石造アーチ橋で、紀元前62年に架橋された。 紀元前23年の洪水で被害を受け 紀元前21年に修復されましたが 建設以来、現代まで現役で利用されている。2つのアーチの間にある小さな孔は、橋の重さを軽くするとともに、洪水時にこの孔に水を流すことで、橋に作用する水圧を逃すためのもの。何も考えずに渡ってしまいそうな橋ですが築2000年以上! 古代ローマの建設技術の高さに驚嘆します。

オリジナルは、紀元前1世紀ケスティウス家の者によって建造されたと考えられているが、その後何度も改築されている。370年の改築では、近くのマルケッルス劇場を取り壊した石材が使用された。真ん中に大きなアーチと両端に小さなアーチの48.50mの橋であったが、19世紀には川幅が拡張され大きな3つのアーチの80.4mの橋となり、真ん中のアーチのみがオリジナルである。

通称ポンテ・ロット(壊れた橋)と呼ばれるアエミリウス橋の遺構。
この場所の少し北に元々木造の橋があったが、紀元前508年、橋を破壊し、エトルリア軍の進撃をくいとめたという伝承がある。石橋は紀元前179年にマルクス・アエミリウス・レピドゥスなどによって橋脚がつくられたと言われることが多いが、プルタルコスやティトゥス・リウィウスの記述から紀元前241年に違うアエミリウスによって造られたとも言われている。その当時の橋桁は木製であったが、紀元前142年に石造りとなった古代ローマ最古の橋。
その後、何度も洪水があり、損傷、修復を重ねた後、1575年に最後の修復が行われ、1598年の洪水で6つあったアーチの3つが流された後、再築されることはなかった。その後、19世紀末に堤防建築のため川岸側の2つのアーチが破壊され、現在残るのは、紀元前2世紀に作られた橋脚の上に1500年代につくられた1つのアーチだけである。
(古代ローマ時代の橋脚が残っていることもすごいが、こんな大きな石の塊を流してしまう洪水の脅威も恐ろしい!)
関連記事:
ティベリーナ島のある地点の左岸、ウシ市場内に建てられていたヘラクレス・ウィクトール神殿について
ケスティウス橋の改築の際に使われた石材は、このマルケッルス劇場から切り取られた。キリスト教の布教により、娯楽の演劇は弾圧されたからだ。
ポンテ・ロットが建築される以前に、この場所に架けられており、紀元前508年のエトルリア軍の進撃の際に破壊された木材の橋にまつわる伝承について。
いいなと思ったら応援しよう!
お読みいただきありがとうございます。チップで応援いただけると励みになります!
Thank you for reading. If you enjoyed this article, please support my work with a tip. 