「出さねば、洗われぬ」はなぜ通じない?――我が家のダメンズ製造原則
「物理の法則(出さねば、洗われぬ)」という、この世の絶対原則が通じない場所がある。
我が子の部屋だ。
洗濯物に出していないものは、本来、洗われることはありえない。100%ありえない。これは物理であり、絶対法則のはずだ。
しかし、我が家の男子たちの部屋では、この法則が日常的にバグを起こしているような気がしてならない。
◇
言っても言っても、部屋に溜まっていく服。
彼らに部屋を任せたら最後、見える床の隙間さえあれば、あらゆる物で埋めていく。床一面に服を敷き詰める彼らと、床を発掘する私。完全なるイタチごっこだ。
ある瞬間、限界がきて「あー、もういい!」と、本人の部屋から私が服を回収してしまう。
中途半端に手を出してしまうからダメなのだ、と自分でも分かっている。
それでも一度、「もう知らん」と完全に放置してみたこともあった。
しかし、結果は惨敗。彼らにとっては、痛くも痒くもなかったのだろう。
特に弟くん。彼は、一度履いた靴下をもう一度履くことになっても、まったく気にならないらしい。
「履ければ何でもいい」のだ。
「洗濯に出して、きれいなものを身に付けたい」という、こちらの前提が根底から覆っている。
彼らの中には、「洗濯物を出す」という行為そのものへの必要性が、そもそも生じていないのかもしれない。
◇
一方、少しは「物理の法則」のコストを自覚しているはずの兄くん。
とはいえ、それは普段から自分で洗濯をしているという意味ではない。
洗濯に出し忘れた体操着が必要な日の前夜に発覚した時だけは、自業自得なので本人が洗って干している。
そこまでの労働は一応こなすのだ。
だったら自ら進んで出すようになるかといえば、話は別らしい。
どれだけ後から自分が面倒な思いをしようとも、事前に「出しておく」という自発的な行動には、なかなかつながらない。
「出しなよ!?」
と私が何度も声をかけて、ようやく重い腰を上げる。
彼にとって洗濯とは、自発的なルーティンではないのだろう。
私からの「出しなよ!?」という警告音が鳴って初めて起動する、手動駆動のシステムになっているのかもしれない。
結果、兄くんが自分で洗っているとはいえ、私は毎日「見張り、声をかけ、ヤキモキする」という、目に見えない認知コストを支払い続けていることになる。
◇
もっと小さい頃に、口うるさく言い聞かせていればよかったのだろうか。
思い返せば、保育園の頃はもう少しマシだった気がする。
当時は私が先にお迎えに行き、一緒に帰宅していた。
だから、「服を脱ごうとした瞬間」に声をかけ、その場でコントロールできていたのだ。
しかし、彼らも成長した。
今や彼らの方が先に家に帰ってくる。
この帰宅タイミングの変化、動線の変化が、外付けの制御システム(=私の声かけ)を外してしまったのだろう。
結果、現在の弟くんは「帰宅したら靴下とズボンを脱ぎ散らかす」のがデフォルト。
兄くんに至っては、靴下だけは脱ぐものの、出かける直前に部屋で体操着に着替えるため、脱いだ服がそのまま放置される。
両方とも、洗濯機の前で着替えてくれれば済む話なのに、と私はいつも思う。
◇
彼らがこの「物理の法則」を、トリガーなしで本当に理解するのはいつになるのだろうか。
やっぱり、一人暮らしでもしない限り無理なのかもしれない。
人間がこういう生活習慣を本質的に改めるのは、誰かに言い聞かせられた時ではないのだろう。
実家というセーフティネットがあり、どれだけ溜め込んでも、最悪「出しなよ!?」というアラーム(=私)が鳴ってくれる環境がある以上、彼らのシステムが自動化される動機は生まれない。
一人暮らしを始め、部屋が文字どおり服の樹海になり、着る服が本当になくなった時、彼らは初めて「あ、出さなきゃ洗われないんだ」と、自分の身をもって知るのかもしれない。
「困っていない人間は動かない」。
これもまた、彼らの部屋に厳然と横たわる、もう一つの頑固な行動法則なのだろう。
……いや。
本当に判明した法則は、そっちじゃなかった。
今日も私は床を発掘し、「出しなよ!?」のアラームを鳴らし、それでも最後には回収してしまう。
どうやら我が家のダメンズたちを、せっせと製造しているのは私自身らしい。
これが、この家で発見された、一番悲しい原則なのである。
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