産業翻訳者がかたる、経済・財務・金融のお話(1)
はじめに
私はおもに経済や金融財務の分野の実務翻訳者として、この40年以上をすごしてきた。そのあいだに経済、財務、金融に関する数多くの英語テキストを日本語に訳してきた。そうして英語テキストと悪戦苦闘しているうちに経済や財務や金融のことが、本当に少しずつだが、みえてきたように思う。学者ではないので本当の意味での専門家とはいえないが、岡目八目という言葉があるように、外からながめたほうがよくわかる部分もないこともない。
本書はそうした実務翻訳者からみた経済、財務、金融の基本の話である。もともと私が講師を務める実務翻訳講座の受講生の皆さんに向けて書いたものだが、他の方々にも面白く読んでいただけるものと期待している。
なかにN、F、Yという3人の人物が登場するが、いずれも私の分身である。翻訳者は2つの世界や人間とつねに向き合っていることもあり、ものごとを複層的にみる癖がついている。それがこの文章にも表れているようだ。
自分のなかに潜むいくつかの人格を描き分ける作業はとても面白く、気持ちよく筆がすすんだ。その面白さと気持ちのよさが読者の皆さんにうまく伝わればと願うばかりである。
なお本稿は2007年に執筆したもので事実関係が古くなった部分もあるが、経済、財務、金融の基礎を学ぶには問題はない。
成瀬由紀雄
1.観・論・術
経済学は、じつにとっつきくい学問です。私自身、経済学というものが面白くなってきたのは、ここ10年ほどのことでしかありません。それまでは、いくら仕事のためとはいえ、なんでこんなインチキくさい学問をしなければならないのかといつも不満に思っていました。どの本を読んでみてもどこかうさんくさい、そして好きになれない、といった感情がつきまといました。
なぜそれほどまでに経済学が好きになれないのかが当時はよくわかりませんでしたが、いまはよくわかります。それは経済学がベースとしている人間観、社会観というものに大きな反発を抱いていたからです。ということで、まずは経済学が拠り所としている人間観、社会観というものを考えてみることにしましょう。
なにかものごとを考える際、考え方の基本として「観」「論」「術」の3段階に分けるのがよいと私は思っています。ちょっと説明しましょう。ただし「術」「論」「観」という反対方向にです。まず「術」ですが、これは、こうすればああなるといった具体的な話のことです。経済学でいえば、利子をこんなふうに動かせば価格はあんなふうに動く、といったような話です。つぎに「論」ですが、ではなぜそんなふうに動くのか、その現象はいったいどのような見えない仕組みによって生じているのか、といったことを考えるということです。経済でいえば、たとえば経済理論モデルの構築がそれにあたります。では「観」とはなにかといえば、そうした「術」や「論」を根っこから支える人間や世界に対する見方そのもののことです。そしてこの「観」の部分の考え方がはっきりわからなければ、いくら「術」や「論」の部分がわかったとしても、本当の意味では心から納得することはできないものではないかと、私は思います。一部の学者さんたちは、この点をすっかり忘れてしまって、理論つまり「論」の部分での果てしない議論を続けていることもあるようですが、それは無駄なことです。まずその議論のもととなる「観」を理解することが議論のスタートであり、それでなければすべてはわからないままで終わってしまうことでしょう。
ところが経済学の本では、この「観」の部分から話をはじめているものが、ほとんどありません。少なくとも、私はいまのところ数冊しか出会っていません。ほとんどの本が、しょっぱなから「論」の部分に突っ込んでいきます。そしてその「論」の代表的なものが「市場メカニズム」モデルなのです。
市場メカニズムの解説自体は「観」の解説ではありません。ある「観」を背景とした、ひとつの「論」の解説です。そしてその「論」の背景となる「観」については、ほとんど何も解説をすることがありません。だから、そうした「観」をまだ共有していない人間にとっては、市場メカニズムを支える「観」がわからないままで市場メカニズムという「論」を利かされることになる。これではいくら聞いても納得などできはずはありません。「市場のなかでは需要と供給が交わるところで価格が決まるんだって? そしてそれが社会に対して一番富をたくさん生み出す状態なんでって? うーん、そういうヘリクツを突然にいわれてもなあ……」といったところではないかと思います。そして「ようするに経済学というのは、自分とはまったくタイプのちがう人間のする学問なんだなあ」とでも思うより、ほかに方法はありません。
こうした事態を避けるためにも、経済学の本とくに入門書の場合は、経済学という学問の背景に潜んでいる人間観、社会観の解説から入らなければならないというのが、私の持論です。ところが実際には、そうなっていない。そしてそのため、経済学はふつうの人間にとって、じつにとっつきにくい学問になっているのです。このことは日本の経済学者たちの大きな怠慢だと思います。あるいはじつのところ、彼らは「観」について深く考え抜いたことがないのかも知れません。
経済学の人間像――俗物
とはいえ、経済学にはそれを支える人間観、社会観というものが確かにあります。そもそもどんな「論」に対してもそれを支える「観」はあるのです。では経済学においては、その「観」はどういうものでしょうか。
まず人間「観」のほうからみていきましょう。経済学の寄って立つ人間観とは、まずなによりもきわめて「現世的」です。神や仏といった現世からはずれた事象については、経済学はすべて無視します。つまり人間という存在を現世という視点からのみ観測するのです。ほとんどの日本人にとって、この「観」はとても受け入れやすいものですね。皆さんだっておそらくそうでしょう。経済学は人間を現世的にしかみていないといわれて「なんと!それでは人間の分析などできるはずもないではないか!」などと強く反発する人は、ほとんどいないのではないでしょうか。
なぜなら、日本人自身が人間という存在を現世という視点からしか見ていないからです。日本人は宗教にとても無関心ですね。超現世主義者といってよいでしょう。ちなみに日本人が仏教徒であるとか儒教徒であるとかというのはすべて真っ赤なウソです[1]。しかし宗教を人間のあり方の中心に据えている人々からみれば、この現世主義という人間「観」はとても受け入れられるものではないでしょう。たとえば敬虔なイスラム教徒の方にとっては。経済学などというものは単なる欠陥品にすぎないはずです。なにしろそこには最も重要な「神」という概念が入っていないのですから。まあ欠陥品なりに使えるところだけをうまく利用してやろうと思うのが普通ではないかと思います。
経済学における第二の重要な人間観は、人間は「富」の獲得をつねに目指す存在だということです。ここでいう「富」とは、少なくとも「自然の恵み」とか「人徳」とかといった、そういうものではない。もっと世俗的なものです。具体的にいえば、おいしい食べ物とか、立派な家だとか、豪華な車だとか、ダイヤモンドだとか、海外旅行だとか、まあ、そんなことだと思ってもらってよい。もっとダイレクトにいえば、それは「欲望」といってよいかも知れません。そのいっぽうで「やさしさ」とか「思いやり」とか「正しさ」といったものについては、経済学では考えないことにします。つまり経済学での人間は道徳的、倫理的である必要はないということです。経済学は、人間という存在から来世を取り除くとともに、道徳もまた同時に取り除いてしますのです。
現世的であることと違って、これにはほとんどすべての日本人がきわめて強い反発と嫌悪感を感じるのではないでしょうか。そして「なんだ、結局のところ経済学などというのは、自分の欲望を満たすことだけを考えているにすぎない学問だ。くだらない!」という考えに落ち着きます。おそらく経済学というものに対する胡散臭さの多くが、この部分から発せられているのだと思います。ただこの胡散臭さについては、マックス・ウェーバーという有名な社会学者が『プロテスタンティズムと資本主義の精神』という本のなかで、いやそうじゃないんだ、資本主義(これが経済学の研究の対象ですが)というのは、じつはある意味でとても倫理的なんだということを強く述べてから世界的には少しましになったようです。でもそんなこと、日本人の私たちには関係ありませんよね。
経済学における第三の重要な人間観は、人間は基本的に「合理的」な存在であるということです。さきに述べたように経済学における人間は、俗世での富を目指すために行動しますが、その際にたとえば同じ価値の富を、一方で100円で売っていて、もう一方で99円で売っていれば、必ず99円のほうを買うという行動をとります。心の中の得体の知れない情熱に駆られて、あるいは文化や伝統を守るために、損するとわかっていても敢えてそっちを買ってしまう、などといった非合理な行動をとることはありません。あくまで理性的であることが人間としてよいことだというのが、経済学における人間観です。ですから、恋愛や冒険や文化や伝統は経済学では基本的に扱いません。もちろん、恋愛や冒険や文化や伝統も俗世的な富として扱うのであれば、話は別ですが[2]。
神仏を畏れず、文化伝統を無視し、精神的な高貴さや自然の豊かさを気にせず、俗世の欲を満たすために合理的に行動する――これが経済学のえがく人間像です。
☆☆☆
F: 先生、質問があるんですけど。
N: はい、なんでしょう。
F: 私、やっぱり納得できません。
N: なにがですか。
F: 経済学の人間観ってやつです。やっぱり、それ、おかしいです。だって、神を畏れず、文化伝統視を無視し、精神的な高みを目指さず、自然をないがしろにして、自分の欲望を満たすための行動するんでしょ? それって、ただのサイテーなやつじゃないですか。たしかに、私だって自分の欲望を満たすことはするけれど、でも文化伝統や精神的なものや自然も同じぐらいに大切だと思ってますよ。私は先生のいうような俗物かも知れません。でも、少なくとも先生が示したような経済学的人間じゃありません。
N: いや、そういうことじゃないんです、Fさん。「経済的人間」というのは、あくまで理論のためのモデルであって、そんな人間が実際にいるということではないんです。
ようするにフィクション、もっといえば、つまりは「でっち上げ」なんですよ。たしかにFさんのいうように、人間というのは、いろいろな側面をもったじつに複雑な生き物です。だからこそそれを学問的に分析しようとすると、なんらかのかたちで単純化してモデル化するしかないわけです。でもこれは経済学にかぎらず、どんな学問でも同じです。物理学だって医学だって物質的世界や人体を単純化してモデル化しているわけですからね。
Y: それにしても、なぜ経済学ではそんないわゆる俗物を人間のモデルとして選んだんですか?
N: いい質問ですね、Yさん。それは経済学という学問が近代西欧社会から生まれてきた学問だからです。ヨーロッパ世界で絶対王政が崩れ、貴族階層に代わってブルジョワジー階層が社会の中心になりつつあった、そんな時代に考え出した人間観が、経済的人間像なんです。このあたりの開設は、つぎに経済学の社会観をお話するときに詳しくすることにしましょう。
Y: ということは、経済学の人間モデルってやつは、あくまで近代西欧社会のつくりだしたモデルってことですね。すると、別の社会だと別の人間観にもとづく経済的人間像をつくることもできるはずですね。
N: はい、そのとおりです。たとえば宗教的社会では経済学は役に立ちません。たとえばイスラム教国家の社会観は経済学の社会観とは大きく異なっています。したがってイスラム社会に経済学を適用することはきわめて困難です。逆にいえばイスラム社会にはイスラム社会の社会観にあわせた経済思想というものがあるはずです。実際、現在のイスラム国家にはイスラムの教義にしたがって利子を一切とらないイスラム銀行というものがあり、それが社会のなかでうまく機能しています。
また文化や伝統を守って自然とともに生きているアフリカやアジアの社会でも、経済学はそれほどうまく機能しません。
Y: じゃあ、なぜ私たちは経済学を学ぶんですか? もっとFさんも納得できるような、本当の意味での「経済学」を学ぶべきじゃないんですか?
F: そうです!そのとおりです。もっと人間的な経済学を学ぶべきです!
N: 神仏を軽視し、文化伝統を無視し、精神的な高貴さや自然の豊かさは気にせず、俗世の欲を満たすために合理的に行動する――これが経済学のえがく人間像です。たしかにこうした人間観を好きになれない人も多くいるでしょうね。でも、冷静に考えてみてください。これがそんなにも悪い人間モデルでしょうか。
私自身も若い頃はこうした人間像を軽蔑していました。そうした人間について考える経済学という学問もくだらないと思っていました。でも実社会に出て荒波にもまれているうちに、徐々に考えが変わっていきました。
たしかに私たちは目先の欲を満たすためにあくせくしている俗物です。でも、それでいいじゃありませんか。そうした俗物も幸せに暮らすことができるのがとても大切なんじゃないでしょうか。そしてそういった俗物たちをいかにすれば幸せにすることができるのか、その仕組みを考えているのが経済学です。そしてここに経済学という学問の持つ意義と限界があるのだと思います。
たしかに経済学には限界があります。経済学的な発想が人間が幸せになるための必要十分条件ではありませんよね。でもそれでも人間はまず俗物として幸せにならなければならないと私は思います。北朝鮮を見てごらんなさい。皆さんはあの国の国民が幸せだと思いますか?江戸時代の日本人のほうが現代の日本人よりも幸せだと思いますか? ノスタルジックにそう考えるのは勝手ですが、当時は大飢饉がくれば農村の子供たちがたくさん殺されたり売りに出されたりしていたんでよ。そんな社会がいまよりもよい社会だったとは私には思えません。
現在の社会をつくりあげた資本主義と経済学を正当に評価しつつ、一方でその欠点や限界をいかに克服していくかを考えることが、いまの私たちに求められている態度だと思いますよ。
F: 先生。
N: はい、なんでしょう。
F: 先生のおっしゃることもわかる気はするんですが、でも、そういう人間をやっぱりどうしても好きになれません。それに、どこかおかしいような気がします。うまくはいえないんですが。
N: Fさん、それでいいと思いますよ。そもそも経済学なんていうのはフィクション、もっといえば、でっち上げなんだから。たしかに「どこかおかしい」んですよ。だからそんなふうに疑問に持つのが自然じゃないかと思います。持たないほうがおかしいんです。じつは経済学者のなかでも、この「ホモ・エコノミクス」という人間観に疑問をもつ人が増えてきているんです。とくに環境経済学の専門家にはそうした人物が多いようですよ。
疑問を持ちつつ、でも勉強は続けていくことですね。そうすると、いままで見えなかったものが、少しずつ見えてくる。どんな勉強でも、それが一番まっとうなやり方だと思いますよ。
[1] 日本人と宗教の関係についてはここでは詳しく説明しませんが、この点をもっと知りたい方には、たとえば小室直樹さんの『宗教原論』あたりを読むことを進めします。
[2] たとえばテレビ番組の『なんでも鑑定団』の世界ですね。あれば美術や伝統をすべて経済的基準で判定するという趣向です。美術や伝統であっても、経済的に価値あるものがよいものだとするわけです。
