一隻の小舟
大海原で一隻の小舟が揺らめく。
男性が一人、
少量の食糧と飲料を乗せて
積荷少なく浮かんでいる。
持っているのは、
小さな羅針盤と十徳ナイフ。
2本のオールと1本の釣り竿。
水面へと糸を垂らして、
静かに魚の動きと竿の反応を見つめていた。
彼は、
放浪する旅人なのか。
彷徨う漂流者なのか。
まだ誰にも知る由もない。
小舟の近くを漁船が通りかかった。
漁師は彼に呼びかけた。
「そんなんじゃ、食っていけねぇぞ」
「釣り方変えなきゃ、
魚はたくさん獲れねぇぞ」
彼は何も応えずに
黙々と糸先の反応に集中していた。
漁師は怪訝そうな顔をして
漁船と共に去っていった。
無視をしたわけではない。
漁師の言葉よりも、
糸先の魚と反応への集中を
優先していたのだ。
どのくらい時間が経ただろうか。
潮風を浴びながら、反応を眺めている。
ようやく、糸を垂らした竹竿が
しなやかに大きく反応をみせた。
大きくしなった竿で釣り上げた魚は
両手に納まるくらいの小ぶりな魚であった。
小ぶりな魚であったとしても、
生きていくために大切な魚。
ナイフで丁寧に捌いて、
静かに感謝し、噛み締めて味わう。
小舟に乗った彼と
漁船に乗った漁師では
魚の見え方が違ったのかもしれない。
漁師が放った「食っていけねぇぞ」は
稼ぎにならない、お金にならない
といった意味合いが強かった。
漁船に備えた探知機や竿の性能は、
小舟の彼とは段違いであった。
たくさん魚を獲ることが当然になっていた。
対して、
小舟の彼は今を生きるために
釣り上げた魚と丁寧に向き合った。
大切に繋ぐために
糸先の反応を最優先に集中した。
お世辞にも性能が良いとはいえない竹竿で
小さくとも、釣り上げる魚に一喜一憂した。
状況と立場が変われば、
同じ存在でも、見え方や考え方は変わる。
小舟の彼は食べ終えると、
潮風を感じながら
おもむろに取り出した水を口にして
ひと息ついていた。
喉の渇きを潤すと
小さな羅針盤で方角を確認し、
二本のオールで小舟を漕ぎ始める。
視線の先には島影が微かに見えていた。
島影に近づいているのか、
遠ざかっているのか、
掴めないまま小舟を漕いでゆく。
潮に流されているのか。
前に進めているのか。
漕ぎ疲れた彼は小舟に寝そべって、
壮大に広がる大空を見上げた。
悠々と空を舞うカモメの鳴く声と
波の音が心地良く彼を包み込む。
いつの間にか眠ってしまった。
どのくらい時間が経ったのだろう。
しばらくすると
目をこすりながら起き上がった。
日は沈んでおらず、まだ明るかった。
島影までの距離はまだ遠い。
島のある方角から遊覧船が
こちらへと進んでくるのが見えた。
彼は少し水を含んで喉の渇きを潤すと
ふたたび、水面に糸を垂らして
釣りをはじめた。
食糧の中から缶詰を取り出す。
十徳ナイフの缶切りで開けて
空腹を満たしつつ、
糸先と竿の反応をじっと見守っている。
少しすると、小舟が波に押し流された。
遊覧船が近づいて、海に波が起きていた。
遊覧船の甲板から二人の男女が
小舟の存在を見つけると、
見下ろしながら声を投げ掛けた。
「ひとりぼっちで何してんの?
そんなことしててもつまらないでしょ」
「何もなくて、可哀想じゃない?」
小舟の彼は、何も反応しなかった。
男女は、何も反応されないことが
面白くなさそうにしている。
その後は、小舟に向けては何も言わず
甲板でキャッキャと騒いでいた。
そのまま遊覧船は
遠くへと離れていった。
投げ掛けられた言葉は
彼の耳に届いていたが、
そんな話はどうでも良いと
潮風とともに流されていた。
水面に垂らした糸先と魚の行方が
そんなことよりも大切だったからだ。
波間にきらめく陽射しを横目に
竹竿がしなやかに反応をみせた。
さっきよりも、竿が大きくしなっている。
釣り上げると今回は魚が二匹掛かっていた。
大きさは小ぶりで、
先ほどの魚と変わらない。
ナイフで丁寧に捌いて、
大切に噛み締めて味わった。
開いた一尾は、保存食として
干物にすることにした。
小舟の彼は、喧騒から離れるために
敢えて孤独の時間を選んだ。
一人の時間で心地良さを得られるから。
たくさんの人に囲まれて
わいわい楽しく過ごす時間で
心地良さが得られる人もいる。
溢れかえるほどの欲望で
煌びやかで目が眩むような世界を
優雅に豪勢に過ごす人もいる。
考え方も生き方も自由。
されど、人の皮を被った
人ならざる者の声に
耳を貸すほど、優しくはなかった。
彼は、
放浪する旅人なのか。
彷徨う漂流者なのか。
見え方なんて、人それぞれだ。
旅人かもしれないし、
漂流者かもしれない。
想像次第でいくらでも変化する。
ただ言えるのは、
ずっと海の上で生活してるわけではない。
島に立ち寄るし、人とも話す。
島影に見えていた島に着いた頃には
干していた魚は
味わい深い干物になっていた。
心は海のように
底知れず深く、
果てしなく広がっている。
気持ちや感情は、
海を泳ぐ魚のように
移り変わり、把握しきれない。
そっと静かに一つひとつの魚を
大切に見守り、向き合う。
丁寧に捌いて、
噛み締めながら味わってみる。
心の揺らぎや波を丁寧に感じて
受け止めて、
感情と気持ちも丁寧に味わうために
反応を見つめてみる。
これまで知らなかった魚の魅力に
気づけることもある。
あなたの海は、
穏やかで優しい海だろうか。
波打ちの激しい荒れた海だろうか。
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