『心の資産』-ありがとうを拾い集めて-
「ありがとう」って、
伝えるのも、受け取るのも
意外と難しい時がある気がする。
「ありがとう」って伝える時に
恥ずかしい感情や照れのような気持ちが
邪魔をして上手く言葉にできないことがある。
普段から言うことが少ない人や
言わなくても察してくれるだろうと
考えがちな人だと
変な意地やプライドによって、
謝罪と同レベルで伝えることへの
ハードルが高いのかもしれない。
生き方も考え方も人それぞれだから
感謝も謝罪もしない人が居ても構わない。
けれど、
誰かの厚意や善意の行動や言動を
踏みにじって良い理由には
ならないのではないだろうか。
踏みにじられた人が「ありがとう」を
受け取ることや伝えることが
苦手になってしまって
「ごめんなさい」の気持ちで
埋め尽くされることだってある。
世話焼きでお人好しで
お節介な人だって、たくさん居る。
自分から好き好んで
そうしたことをやっている人も居るけれど、
自分を押し殺して堪えている人も
たくさん居るような気がする。
「ごめんなさい」や「すみません」が
口癖になって、習慣になると
だんだんと視界がモノクロに感じてくる。
謝る必要のない場面でも、
口から漏れ出してしまう時もある。
「ありがとう」と伝えてもらっても
「いやいや、自分なんて…」と謙遜して、
素直に受け取れなくなる時だってある。
謙遜は美徳とされることもあるけれど、
控えめな姿勢で下へ下へと
自分を周りよりもへりくだってしまうと、
自己卑下や自信喪失になることもある。
謙遜し続けていると、周りから舐められて
都合良く使われてしまう。
控えめな態度で自分に奢らず、
周りへと配慮や敬意を持つことは、
謙虚で素敵な立ち振る舞いとされる。
謙遜と謙虚は混同されやすいが、
似て非なるものな気がする。
控えめな態度は一緒だとしても、
謙遜は、周りを引き立てるために
過度な自己否定や過小評価して
自分で自分を下げてしまうけれど、
謙虚は周りに敬意や感謝を持って
未熟さを受け止めて
自分を過信しすぎず、
素直に認めながら過ごす。
謙虚さは、
信頼や調和を生み出すような気がする。
謙遜は、
過剰な自己否定や
自尊心を欠如させるだけでなく
勘違いした天狗や裸の王様を
生み出すこともあるのではないだろうか…。
「ありがとう」や感謝の気持ちって、
余白や余裕を生み出すための「心の資産」
なのかもしれない。
自分の能力や成果に溺れた時
周りへの感謝を忘れてしまう人がいる。
自分への謙遜を繰り返して
自己卑下や過小評価をし続けたことで
本来の自信や魅力を
すり減らしてしまう人もいる。
心からの労いや賞賛を
素直に受け止められないことだってある。
「ありがとう」や感謝の積み重ねは、
他人との距離感や関係への選別の種に
なるだけではなく、
自分自身への尊重や愛情を育てる種にもなる。
そんな気がした。
「ありがとう」は、
着眼点や視点を切り替えながら
探してみると日常の中に
たくさん転がってる。
小さな「ありがとう」を拾い集めると
少しずつ自分への労いや賞賛を
素直に受け止められるようにもなる。
口癖のように漏れていた「すみません」を
「ありがとうございます」に変えてみた。
道や順番を譲ってもらえた時、
エレベーターで扉を開けてくれている時、
飲食店で店員さんに水を注いでもらった時、
謝る必要のない場面で
「すみません」と気弱に発していた。
ある時ふと、
「自分なんかのために…」って
考えが自分を覆い被さっていることに
気がついた。
過剰に自己卑下して
自分で自分を蔑んで、首を絞めて
呼吸をしにくくしていたのかもしれない。
落ち着いて客観的に見つめた時、
「ありがとう」で良い場面を
「すみません」にしていたことに気付く。
自分に非があるならば、
謝らないといけない。
けれど、
理不尽な説教や指導に
「謝罪の安売り」はしなくて良い。
怒鳴り声や鬼のような形相に
怖さや怯えを抱くことは当然ある。
「謝罪の安売り」をし続けていると、
舐められ、雑な扱いをしても良い存在に
認定されてしまう時があるような気がする。
客観的な視点で理不尽な言動や行動を
された時に学びや気づきの材料として
見てみると、「ありがとう」に
変えられることがある。
理不尽で身勝手な振る舞いを見た時
人間として
「悪いお手本を見せてくれたんだな。」
反面教師にして
「こうはならないように戒めにしよう。」
と捉え方を少しズラしてみると
人として成長するための
学びと気づきを授けてくれて「ありがとう」
に解釈を変えられた気がした。
反応し過ぎずに受け流し、
あしらっても良いことを
自分に許可を出した瞬間、
キャパオーバーな抱え込み過ぎる感覚は
ほんの少しだけ楽になった。
自分自身の振る舞いはどうだろうかと
見直すことにもできる気がした。
誰もが誰かの手を借りて、生きている。
インフラ整備をしてくれる人がいるから
水や電気、ガス、交通機関が機能して
生活が循環していく。
食も仕事も誰かのサポートがあるから
循環しているのだと思う。
目立つサポートも見えないサポートも
欠かせない存在な気がする。
生活に支障が生まれた時に
ようやく当たり前や普通に対して
そうとは限らないと気づくことができる。
痛みや哀しみ、
失い壊れる恐怖や不安。
傷付き、ボロボロになることもある。
けれど、その先で
感謝と尊重の大切さを見つけられた。
彩りある景色を見える目。
綺麗な音色を聴ける耳。
自由に言葉を発せられる声帯。
味わいを感じられる舌。
匂いを嗅ぎとる鼻。
自由に動かせる手足。
年中無休で血流を循環させている心臓。
「普通」や「当たり前」の世界で生きていると
有るのが当然に呑み込まれ、
五感や知覚、動作への感謝に
気づかないまま過ぎてゆく。
自分に優しく感謝して、
感じる気持ちを尊重することで
自分を大切にしたい愛情や愛着が
少しずつ満ちていく…。
感謝や尊重で余裕が生まれてくると、
他の誰かや周りにも
感謝や尊重を届ける余白が
生まれるような気がした。
僕はまだまだ未熟で
まだ何も成し遂げていない持たざる者。
これからも小さな「ありがとう」や
感謝を見つけて拾い集めながら、
余白や余裕を生み出す「心の資産」を
少しずつ築いていく…。
試しに心友キャラクターの
ペングーとニャーニャを動かしてみました。
いつも読んで下さって、
本当にありがとうございます。


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