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【シロクマ文芸部】三月に【3000字小説】

三月になったら引退しようと思って。

と母が言ったとき、私は一瞬何を言われたのかわからなくて、固まってしまった。電話の向こうで言葉がばらばらにほどけて、一音ずつの音の羅列になっている。

サ ン ガ ツ ニ ナ ッ タ ラ イ ン タ イ シ ヨ ウ ト オ モ ッ テ

「急にどうしたの」
「急ではないの。前から考えていたこと。もうね、とてもじゃないけれど昔のようには踊れないの」

そんなの知らないけど、という言葉が喉元まで出かかって堪えた。
いくらなんでも思いやりに欠けている。娘としても、人としても。

「辞めてどうするの」
「そうね、結局はなにがしか、バレエに関係した仕事をすることにはなるんじゃないかと思うけれど、今のところは何も決まってない。とりあえず日本に帰ることになると思う」


そうなのか、帰るのはとりあえずなのか。

つまり、私の存在はとりあえずの存在なのか。


そんなことを言ったら、おそらくは否定される。そんなつもりで言っていないと言われる。それはそうだろう、母にそんなつもりはない。それはわかっている。

でもそう聞こえるのだ、と叫びそうになる。
けれど私は結局何も言わない。

「引退公演はあるの?」
「一応は」
「見に行こうかな」
「でもあなた学校とかで忙しいんじゃない?」
「引退は来年の三月なんでしょ? あなたの娘は高校を卒業するんですよ」
「ああそうか、そうだった。早いものね」


母との電話を切って、私はリビングへと行った。
そこに行けば、庭で洗濯物を干しているミカちゃんが見えるはずだ。今はなんとなく、一人でいるのが憂鬱だった。

リビングに行くと案の定、掃き出し窓が開け放されていて、庭ではミカちゃんが洗濯物を干していた。
空は晴れ渡っていて、入ってくる風が気持ちいい。五月のキラキラした新緑を背景に、ミカちゃんは淡々と動いている。
繰り返される日常の動作が洗練されて綺麗なのは、ミカちゃんも元はダンサーだからだろうか。

ミカちゃんは、私が小学生の頃からうちにいる、母が雇ったお手伝いさんだ。
母よりもだいぶ若いのに、足を故障して踊れなくなったのだ。
洗濯物の入った籠を持って家の中を歩いたり、買い物に行くのに車を運転したりする姿を見ていると、普通に動けているし、なんともないように思える。それでも、彼女はもう踊れない人なのだという。
そう聞いた時、踊るのってすごく大変なことなんだなと思った。

視線を感じたのか、ミカちゃんがくるっと素早く振り返った。その動きすら、体幹が少しもぶれないので、何かの踊りの一部のようだった。

「あゆちゃん、電話終わったの?」
「うん」
私の返事を聞いて、ミカちゃんはフッと笑った。
「なに?」
「浮かない顔をしている」

こういう時、ミカちゃんは何も聞いてこない。私が何かを言い出すのを待つだけだ。

「ママがね、ダンサーを引退するんだって」

ミカちゃんは一瞬だけ手を止めると、
「あー」
と奇妙にしゃがれた声を出した。

「もしかして知ってた?」
「そうだね、ちょっと前に聞いて。そっか怜美れみさん、とうとうあゆちゃんに言ったのか」

パン、とミカちゃんが私のジーンズを伸ばしている。
私はサンダルをつっかけて、ミカちゃんの隣に立った。
「あゆちゃんはやらんくていいのに」
「一緒にやったほうが早いでしょ」

私の洗濯物の干し方はミカちゃん仕込みだ。
家の中の掃除も、買い物の仕方も、料理も、大概のことはミカちゃんから教わってきた。ミカちゃんは家事がとても上手で、そうしてどんな家事でも所作がとにかく美しかった。

私には、次に彼女が何をしたいのか手に取るようにわかるし、私たちは二人がかりで家事を進めるといろんなことがとても早く終わる。
ひとつの思考を持ってふたつ身体があるみたいだな、と思う時がある。そんな私たちは、傍から見るとどんな二人に見えるのだろう。


母は、自分の子供が日本で育つことを選んだけれど、自分自身のキャリアの拠点は海外に置いたままだった。
父親は、私が物心ついた頃にはすでに存在せず、私は当然のように祖父母の家に預けられたけれど、祖父母は祖父母で仕事があって、各々忙しかった。

私が小学生のある日。
母は、忙しい祖父母と忙しい自分が、私のそばにいない代わりのようにして、ミカちゃんを連れてきた。
ただ、それは私のためだけではなく、若くしてキャリアを断たれた、これまでバレエにしか打ち込んでこなかった後輩ダンサーに対しての救済措置。母による、私と彼女のための一石二鳥の計画だったのだ、ということには、最近になってから思い至った。

私には、側にいてくれる保護者が必要だったし、ミカちゃんにも住む場所や身体に無理をさせずに働ける場所が当時必要だったのだろう。
その両方を、母は私たちをパズルみたいに組み合わせて、いっぺんに与えようとした。

けれど、私がその頃必要としていたのは、ミカちゃんではなく母本人であったし、ミカちゃんにとっても、ミカちゃんが目指していた世界で順風満帆に踊り続けている母の庇護下にいることが、最善だったとは思えない。

母は、私たちに与えようとして、けれど彼女は私たちに与えるのと同じだけ、あるいはそれ以上に何かを奪ったのだ。そしてそれは、彼女が、白浜怜美しらはまれみというバレエダンサーが、第一線で活躍をしていくことと、常に背中合わせだった。


そこまで考えたところで、急に腑に落ちて「そっか」と声が出た。

「どうした?」
「どうしよう。引退したママを、私は受け入れられないかもしれない」

私があんなにママにいてほしかった時に、ママはいつでもいなかった。
たとえば熱を出したときに、たとえば友達と喧嘩をしてしまったときに、たとえば学芸会でとても良い役がついたときに、たとえば運動会でころんでしまったときに、私はママに帰ってきてほしかったのに。
私がママにいてほしい時にママがいないのは、全部、バレエダンサーの白浜怜美が踊っているせいだったのに。
あっさりと引退してしまう。そんなのってない。

来年の三月を過ぎたら、私の年がいくつなのかも知らない引退したダンサーが帰ってくる。いや、新しく今の私とミカちゃんの生活に加わる。それとも、ミカちゃんはもうお役御免になるのか。急な変化に気持ちがついて行かない。私がママを必要としていた時間を我慢して我慢して得るのがこれなのか、と思ったら愕然としてしまう。

ママに踊らないでほしかったわけじゃない。むしろその逆だ。踊っていてくれさえすれば、自分の我慢は、あの美しいものを生み出すためのものだと思っていられたのに。

「また何かを考えこんでいるね?」
ミカちゃんは、ほんの一瞬だけ困った顔をしたけれど、気を取り直したように、ポンポンと私の背中を叩いた。

「洗濯物がはやく干し終われた。あゆちゃんが手伝ってくれたおかげだ。お茶でも飲んでひとやすみしよう。何がいい? 昨日生姜を煮ているから、炭酸で割ってジンジャーエールもできるよ」

家の中に戻ろうとするミカちゃんの手を掴んで、
「ミカちゃんは、ママが帰って来ても家にいてくれる?」
と私は言った。

私は結局そんなことしか言えない。もしかしたらこの家にいる間、押し付けられた善意に傷ついてきたかもしれないミカちゃんに対して、こんなことしか。

「怜美さんとあゆちゃんが、私を追い出したいとかでなければ」
と言って、ミカちゃんは笑った。ミカちゃんの笑顔の背景になった五月は青々としている。
今はまだ、三月じゃない。



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#シロクマ文芸部  さんに、今週も参加させていただきました。

今週のお題は「三月に」とのことです。

不慣れかつ曜日感覚がないせいで、お題に気が付いたのが昨日というね……。
もっと前からお題は発表されているのになぜ……

なんとか間に合いました。
本文は3,000字きっかりです。
楽しかったです。ありがとうございます。

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