小説「日本リブート」 9 中巻〜永田町の悪魔〜 第3章 消耗品としての消費-3
官僚機構の分厚い壁と「黒塗り文書」の前に、無力感を味わった一ノ瀬。
しかし、永田町の神様は、彼に休む暇を与えなかった。
次に彼を待ち受けていたのは、泥沼のようなスキャンダルと、そこからのあまりにも鮮やかな「大抜擢」だった。
防衛大臣政務官。
当選一回の新人議員が就くには異例中の異例、政府高官のポストです。
「権力という名の麻薬」。
腐臭漂う不祥事の「消臭剤」として利用されることを知りながら、翔はその黄金の椅子に座ることを選びます。
市ヶ谷の丘で彼を待っていたのは、整列した自衛官たちによる荘厳な敬礼と、魂を売り渡す契約書でした。
3-3. 金色の防波堤(2040年 夏)
1. 永田町の腐臭
二〇四〇年、七月。
梅雨明けの東京は、逃げ場のない湿気と熱気に包まれていた。 だが、永田町に漂っていたのは、アスファルトの匂いではない。もっと有機的で、鼻の奥に粘りつくような、腐った果実のような甘ったるい悪臭だった。
原因は、一冊の週刊誌だった。
発売日の朝、コンビニの棚からその雑誌が消え、同時に内閣支持率が三ポイント蒸発した。
『防衛大臣政務官・牛島(うしじま)、銀座クラブホステスとの不倫&政治資金で高級ランジェリー贈答疑惑』
見出しが踊った瞬間、国会は止まった。 よりにもよって、国防の要職にある人間が、国民の血税で愛人に下着を買い与えていた。その事実は、安全保障論争以前の、もっと原始的な生理的嫌悪感を国民に植え付けた。
野党議員は委員会室で、ここぞとばかりに「パンツ政務官!」「日本の恥!」と連呼し、牛島は脂汗を垂らして立ち尽くすのみ。 総理官邸は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
そんな喧騒の中、一ノ瀬翔は議員会館の自室で、テレビのニュースを他人事のように眺めていた。 画面の中で、牛島政務官がカメラのフラッシュに晒されている。
「……馬鹿な人やな。バレんようにやればええのに」
翔は冷めきったコーヒーを啜り、独りごちた。 数ヶ月前の彼なら、「許せない」と憤っていただろう。だが、「黒塗り文書」の一件以来、翔の心には薄い膜がかかっていた。 どうせ、上が腐っているのだ。末端が何を叫ぼうと、この巨大な腐敗構造は変わらない。 当選一年目の自分には関係のない、雲の上の権力闘争であり、対岸の火事だ。
だが、その認識は、デスクの上の電話が鳴った瞬間に打ち砕かれた。 内線電話のディスプレイに表示された文字を見て、翔はコーヒーカップを置いた。 『自由民政党・政務調査会長室』。 党の政策責任者であり、翔をこの世界に引きずり込んだ張本人、葛城宗一郎(かつらぎそういちろう)からだった。
「はい、一ノ瀬です」
『今すぐ来い』
短い命令。有無を言わせぬ響き。 翔は反射的に上着を掴み、廊下を走った。
党本部四階、政調会長室。
重厚な扉を開けると、そこはすでに戦場の司令部と化していた。 数人の党幹部と、国対委員長が集まり、紫煙の中でしかめっ面を突き合わせている。部屋の空気は重く、誰もが苛立っていた。
葛城は、部屋の隅に立たせた翔を一瞥もしないまま、手元の書類にペンを走らせていた。
「牛島は切る。今日の夕方、辞表を提出させると総理と決めた」
葛城の声は、事務的に生ゴミの処分方法を決める清掃員のそれだった。 周りの幹部たちが「早すぎるのでは」「任命責任が」とざわめくが、葛城は手を挙げて制した。
「傷口は広がる前に焼く。それが鉄則だ。……問題は後任だ。野党は任命責任を追及してくる。マスコミも嗅ぎ回る。これ以上、埃の出る人間は閣内には置けない」
葛城はそこでペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。 その爬虫類のような冷たい瞳が、部屋の空気を切り裂き、直立する翔を射抜いた。
「必要なのは『消臭剤』だ。強烈な腐臭を、一瞬で消し去るほどの、圧倒的に爽やかな香料が必要だ」
「……」
「一ノ瀬。君がやれ」
翔は息を呑んだ。 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「……はい? 私が、ですか?」
「聞こえなかったか? 防衛大臣政務官だ」
部屋中の視線が翔に集まる。嫉妬、値踏み、嘲笑。様々な感情が混ざり合っていた。 防衛大臣政務官。認証官ではないが、省庁のナンバー3。大臣、副大臣に次ぐ政府高官だ。 通常は当選二回か三回の中堅が就くポストであり、当選一回、二年目の若造が就ける席ではない。
翔の心臓が早鐘を打った。 政務官になれば、専用車がつき、SPがつき、省庁の官僚たちが頭を下げる。 昨日まで「黒塗り文書」で無視されていた自分が、一夜にして「書く側」に回るのだ。 だが、翔の背筋に冷たいものが走った。本能的な警戒心だ。話がうますぎる。
「あの……光栄ですが、私は防衛政策に関しては素人です。部会でも、まだ勉強中の身で……」
「勘違いするな」
葛城は鼻で笑い、デスクを回って翔の目の前まで歩み寄った。 仕立ての良いスーツから、微かに高級なコロンの香りがした。
「誰が君に国防を任せると言った? ミサイルの配備計画も、予算の折衝も、君が考える必要はない。それは役人がやる」 葛城は、翔の整った顔立ちを、まるで商品を検品するように見上げた。
「君の仕事は二つだけだ。 一つ、牛島がつけた『下着のシミ』を、君のそのクリーンで爽やかな笑顔で上書きすること。 二つ、自衛隊員募集の広告塔になること」
「広告塔……?」
「そうだ。少子化で自衛官のなり手がいない。定員割れが深刻だ。そこで、君だ。若い、そしてイケメン。君が制服を着てポスターになれば、女性や若者の志願者が増えるだろう」
翔は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。 要するに、「客寄せパンダ」になれということだ。 政策能力など求めていない。知性も、情熱もいらない。 ただ、この「顔」と「若さ」と「好感度」だけを、党の利益のために差し出せと言われているのだ。
「……私は、マスコットキャラクターですか」
精一杯の皮肉を込めて言った。
だが、葛城は微塵も動じなかった。
「そうだ。優秀なマスコットは、無能な司令官より遥かに役に立つ。……嫌なら断れ。代わりはいくらでもいる」
葛城が興味を失ったように背を向けた。 その背中が遠ざかっていく。 ここで断れば、自分は「ただの新人」に戻る。またコピーを取り、ヤジを飛ばし、役人に無視される日々に逆戻りだ。 次のチャンスはいつだ? 五年後か? 十年後か?
プライド? そんなものは犬に食わせればいい。 パンダでもピエロでもいい。舞台に上がらなければ、何も始まらないのだ。力を手にするまでは。
「……やります」
翔の声が、部屋に響いた。 葛城が足を止め、振り返らずに言った。 「聞こえん」
「やります! 受けさせてください!」
葛城は、口の端を歪めて笑った。
「いい返事だ。……泥をかぶる覚悟だけはしておけよ」
2. 市ヶ谷の洗礼
翌日。 一ノ瀬翔の「防衛大臣政務官」就任が正式に発表された。 メディアの反応は、葛城の計算通り、いや、それ以上だった。
『まさかの抜擢! イケメンすぎる政務官誕生』
『牛島スキャンダルを一掃? 永田町のプリンスが国防へ』
『34歳の若きリーダー、自衛隊をどう変える?』
テレビのワイドショーは、牛島の不倫騒動から一転、翔の学生時代の写真や、街頭演説での爽やかな映像を流し始めた。 世間の空気は、「怒り」から「期待(という名の消費)」へと、鮮やかに切り替わった。 「消臭」は成功したのだ。
その日の午後。 翔は初めて、市ヶ谷にある防衛省本省へ足を踏み入れた。
ゲートが開く。 黒塗りの公用車が、ゆっくりと敷地内に入っていく。 窓の外には、広大な敷地と、その中央にそびえ立つ巨大な通信鉄塔が見えた。日本の防衛の中枢。
車寄せに到着すると、SPがドアを開けた。 翔が降り立つ。 その瞬間、空気が変わった。
「政務官に対し、栄誉礼!」
張り裂けんばかりの号令が、コンクリートの壁に反響した。 目の前の儀仗広場には、特別儀仗隊が整列していた。 紺色の制服、白い飾緒、白手袋。 微動だにしない精鋭たち。彼らが持つ小銃の銃剣が、夏の日差しを反射してギラリと光る。
「捧げ——、銃(つつ)!」
ジャッッッッ! 数百人の動作が、完全にシンクロした音が響く。 それは、単なる動作音ではなかった。金属と衣擦れと、人間の意思が一つになった、美しくも恐ろしい「暴力装置」の鼓動だった。
翔は息を呑んだ。 今まで、選挙の演説で何千人の前に立ったこともある。歓声を浴びたこともある。 だが、これは違う。 ここにあるのは「熱狂」ではない。「規律」と「服従」だ。 国家という巨大なシステムが、一ノ瀬翔という個人に対して、敬意を表している。
(これが……権力か)
翔は背筋を伸ばし、ぎこちなく答礼を返しながら、赤絨毯の上を歩いた。 靴音が響く。 儀仗隊員の瞳は、一点を見つめたまま動かない。彼らは翔を見ているようで、翔の背後にある「国家」を見ているのだ。 だが、翔は錯覚した。 自分が、特別な存在になったのだと。 この数百人の精鋭を、いや、二十五万人の自衛隊員を、自分が動かせるのだと。 足元から這い上がってくる全能感が、脳髄を痺れさせた。これは、どんな酒よりも強く、どんな称賛よりも甘い、権力という名の麻薬だった。
「一ノ瀬政務官、お待ちしておりました!」
正面玄関では、事務次官を筆頭に、背広組(内局官僚)と制服組(自衛官幹部)がずらりと並び、深々と頭を下げた。 先日まで、翔の質問主意書を「のり弁」にして嘲笑っていた連中と同じ種族だ。 それが今は、翔のために道を空け、エレベーターのボタンを押している。
最上階に近い、政務官室。 広々とした執務室からは、東京の街が一望できた。 革張りの椅子。大きなデスク。 翔がそこに座ると、すぐに事務次官直属の秘書官が、分厚いファイルを置いた。
「これからの先生のスケジュールと、発言要領です」
秘書官は、感情のない事務的な声で言った。 ファイルを開く。
そこには、明日の記者会見の想定問答集、来週の基地視察での挨拶文、さらには個人のSNSへの投稿内容案まで、一字一句が指定されていた。
「……あの、僕の言葉で喋っちゃいけないんですか?」
「防衛省の発言は、一語一句が周辺諸国へのメッセージとなり、国際問題になりかねません。アドリブは一切禁止です」
秘書官は、有無を言わせぬ口調で続けた。
「特に、牛島前政務官の件については、この3ページの通りのみお答えください」
指定された回答は、『個人のプライベートに関することであり、コメントは差し控える。私は職務に邁進するのみである』という、味気ない定型文だった。
「分かりました。……ところで、さっきのニュースで見たんですが、次期イージス・システム搭載艦の予算について議論があるそうですね。詳細な資料を見せてもらえますか? 僕なりに勉強して……」
「先生」 秘書官が言葉を遮った。眼鏡の奥の目が、冷ややかに微笑んでいる。
「それは高度な技術的・専門的案件ですので、我々事務方が処理します。ご安心ください。先生には、もっと重要な任務があります」
「重要な任務?」
秘書官は、鞄から一枚のポスター案を取り出し、デスクに広げた。 翔は絶句した。
そこには、航空自衛隊のパイロットスーツを着て、ヘルメットを脇に抱え、白い歯を見せて爽やかに笑う一ノ瀬翔の合成写真があった。 背景には青い空と戦闘機。 そして、太いゴシック体でキャッチコピーが踊っている。
『守りたい、君の明日を。——自衛官募集』
「来月の募集キャンペーンのメインビジュアルです。撮影は明日。その後、都内のイベントでトークショーを行っていただきます」 秘書官は、まるでタレントのマネージャーのように淡々と言った。
「先生には、とにかく『カッコいい自衛隊』『開かれた防衛省』を演出し、若者を集めていただきたい。それが、この国を救う唯一の道です」
翔は、自分の顔が印刷されたポスターを見つめた。 写真の中の自分は、自信に満ち溢れ、まるで国の守護神のような顔をしている。 だが、実態はどうだ? 予算の中身も知らされず、自分の言葉も奪われ、ただ人形のように笑っているだけだ。
さっきの栄誉礼の興奮が、急速に冷めていく。 あれは、俺に向けられた敬意じゃない。 「政務官」という役職、そして「便利な広告塔」という機能に向けられた、儀礼的なパフォーマンスだったのだ。
国の安全保障を議論する席には座らせてもらえず、ただ笑顔を振りまいて人を集める。 まるで、中身のない商品を売るための、悪徳商法の広告塔だ。
(……ええわ。やってやる)
翔は、ポスターの自分の目を見つめ返しながら、腹の底で毒づいた。 徹底的に利用されてやる。パンダでもマスコットでも演じきってやる。 その代わり、この巨大な省庁の仕組み、予算の流れ、人脈……全部、盗んでやる。 ただの飾り物で終わると思うなよ。
「分かりました。最高の笑顔で撮りましょう」
翔は秘書官に向かって、ポスターと同じ、完璧な営業用スマイルを作って見せた。 市ヶ谷の長い夏が、始まろうとしていた。
■ あとがきエリア
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