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小説「日本リブート」 8 中巻〜永田町の悪魔〜 第3章 消耗品としての消費-2

「国会議員になれば、理不尽な世の中を変えられる」 そんな青臭い理想は、永田町の分厚い絨毯の上で、瞬く間にすり減った。

新人議員・一ノ瀬翔は、「使い走り」としての日々を味わっていた。
政策論争など夢のまた夢。
来る日も来る日も、コピー取りと国会対策委員会の席埋め、そしてヤジ飛ばし。
「自分は一体、何のためにここにいるのか?」 そんな自問自答を繰り返す翔の元に、ある日、地元・奈良から一本の電話が入ります。

それは、彼が初めて掴んだ「巨大な不正」の尻尾でした。 新人議員には国会での質問時間は与えられません。しかし、彼には法律で認められた武器、『質問主意書』がある。

「行政による無視」。
正義感に燃えて振り下ろした剣は、霞が関が用意した「黒塗りの盾」の前に、あまりにも無力でした。
物理的な暴力よりも恐ろしい、無回答という名の暴力。 一ノ瀬翔が直面する、日本の統治機構の暗部をご覧ください。

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本編:第3章 消耗品としての消費

2. 幻の質問主意書(官僚による握り潰し)

 三月半ば。  年度末の予算審議が大詰めを迎え、永田町全体が一種の躁状態にある時期だ。  深夜の議員会館。一ノ瀬翔の事務所の窓には、まだ明かりが灯っていた。  国会日程の調整や、翌日の部会の資料整理。新人議員の夜は長い。  静まり返った部屋に、電話の呼び出し音が鳴り響いた。  地元・奈良の事務所からの転送だ。時計の針は午後十時を回っている。こんな時間の連絡は、たいていロクな知らせではない。

「はい、一ノ瀬事務所です」

 翔が受話器を取ると、電話の向こうから、しわがれた、震える声が聞こえてきた。
「一ノ瀬先生……ですか?」
 相手は、谷岡(たにおか)という、地元の奈良で小さな建設会社を営む社長だった。  選挙戦の最中、雨の日も風の日も、ポスター貼りを手伝ってくれた古くからの熱心な支持者だ。日に焼けた笑顔が印象的な好々爺だが、今のその声には、悲痛な響きが混じっていた。

「谷岡さん、どうされたんですか。こんな夜更けに」
「先生……もう、うちはあきまへん」  電話口の谷岡は、泣いていた。
「今日、県道の改修工事の入札結果が出たんですわ。また、あの『M建設』が持っていきよった。うちはギリギリまで経費削って、一番安い価格を出したんです。それやのに、『総合評価方式』とかいう訳の分からん名目で、点数操作されて落とされたんです……!」

 翔の眉間に皺が寄った。  M建設。地元の有力代議士の親族が経営に関与しているとされる、いわくつきの会社だ。
「総合評価方式……。価格だけじゃなく、技術力や実績を加味して決めるやり方ですね」
「建前はそうですわ。せやけど先生、M建設が出した技術提案書、うちのとこよりスカスカなんです。それやのに『地域貢献度』とかいう曖昧な項目で満点がついとる。……これ、完全に出来レースですわ。役人と業者が最初から握っとるんです」

 谷岡の嗚咽が、受話器を通して翔の耳に痛いほど響いた。
「従業員のボーナスも払えん。真面目にやっとるもんが馬鹿を見る。先生、あんた選挙の時言うてくれましたやん。『古い政治をぶっ壊す』って。……助けてくださいよ」

 翔の胸の奥底で、何かが着火した。  熱い、ドロドロとした怒りだった。  この一ヶ月、党の雑用係として頭を下げ続け、自分の中の正義が死にかけていた。だが、この電話が目を覚まさせた。  地方の中小企業が、不透明な入札と利権構造によって食い物にされている。  これはまさに、自分がマイクを握りしめて訴えてきた「打破すべき既得権益」そのものではないか。

「……分かりました」  翔は受話器を強く握りしめた。
「任せてください、社長。僕が必ず国会で追及して、事実を明らかにします。泣き寝入りはさせません」

 電話を切ると、翔はすぐにジャケットを脱ぎ捨て、パソコンに向かった。 目には、久しぶりに野獣のような光が宿っていた。

 しかし、現実は甘くない。  新人議員である翔には、予算委員会での質問時間は一分たりとも回ってこない。テレビ入りの華やかな舞台で大臣を追及できるのは、当選回数を重ねたベテランか、党が売り出したい幹部候補だけだ。  今の翔は、ただ席に座ってヤジを飛ばすだけの「数」に過ぎない。

 だが、武器はある。
翔はキーボードを叩き、一つの書式ファイルを呼び出した。  『質問主意書』。  国会法第七十四条に基づく、国会議員の固有の権利だ。  議員が内閣に対して文書で質問を行い、内閣はそれに対し、七日以内に閣議決定を経て「答弁書」を返さなければならない。  これならば、国会の会期中であれば、質問時間の割り当てに関係なく、政府の見解を公式に正すことができる。しかも、閣議決定というプロセスを経るため、その回答は「政府の公式見解」として極めて重い意味を持つ。

(これだ。これで内閣を刺す)

 翔は、その夜から寝食を忘れて没頭した。  谷岡から送られてきた入札資料はもちろん、過去十年分の奈良県内の公共事業入札データをすべて洗い出した。  コンビニのカップ麺がデスクに積み上がっていく。目は充血し、髭は伸び放題になったが、翔の集中力は途切れなかった。

 データは嘘をつかない。  調べてみると、腐敗の構造は明白だった。  特定の時期、特定の工種において、M建設の落札率が異常に高い。しかも、彼らが落札する時の入札額は、予定価格の99・8%という、神業のような近似値を示していた。  事前に価格が漏れていなければ、あり得ない数字だ。  翔はそれをグラフ化し、会計法や独占禁止法の条文と照らし合わせ、論理の網を絞っていった。

 本来なら、派閥の先輩議員や政調会の部会に相談すべき案件かもしれない。  だが、相手は身内の恥部にも関わる可能性がある。相談すれば、「余計なことをするな」「波風を立てるな」と握り潰されるのは目に見えていた。  だから、翔は誰にも言わず、独力で書き上げた。

 三日後の朝。  完成した質問主意書は、A4用紙でわずか五枚。  だが、その五枚には、翔の執念とロジックが凝縮されていた。    一、当該工事における入札経過と評価点の詳細な内訳について。  二、特定の業者に落札が偏っている事実に対する政府の認識について。  三、官製談合防止法に基づく調査の実施可否について。

 論理的で、鋭く、逃げ場のない質問状。  推敲に推敲を重ね、役人が得意とする「ごまかし」の余地を極力排除した文章だ。

(これなら、役人も言い逃れできないはずだ)

 事務総長室へ提出した瞬間、翔は震えた。  それは武者震いであり、初めて「本当の国会議員の仕事」をしたという手応えだった。  コピー取りでも、ヤジ要員でもない。  国民の代弁者として、政府という巨人に戦いを挑む。その高揚感が、疲労した体に染み渡った。

 ——だが、その高揚感は、二週間後に絶望へと変わる。

 四月上旬。  内閣から戻ってきた「答弁書」が、翔の議員会館のデスクに届いた。  茶封筒には、「内閣衆質」という無機質なハンコが押されている。  翔は逸る鼓動を抑えながら、封筒を手に取った。  政府がどう反応するか。調査を約束するか、あるいは言い訳を並べるか。いずれにせよ、何らかのリアクションがあるはずだ。そこからが勝負だ。

 翔は封筒を荒々しく破り捨て、中身の書類を取り出した。  一枚目。  内閣総理大臣の名前と公印。  そして、本文。

「……なんや、これ」

 翔の口から、乾いた声が漏れた。  そこに並んでいたのは、言葉の死骸だった。

『一について。ご指摘の点については、個別の契約案件に関わる事項であり、お答えを差し控える』
『二について。法令に基づき適切に運用されているものと承知している』
『三について。一および二と同様である』

 翔は目を疑った。  ページをめくる。だが、続きはない。  五枚の質問書に対し、回答はわずか半ページ。  すべての問いに対し、「お答えを差し控える(ゼロ回答)」か、「適切である(現状追認)」の二択のみ。  なぜ適切なのか、なぜ答えられないのかという理由すら書かれていない。  翔が徹夜でデータを分析し、組み立てたロジックに対する反論すらなく、ただ機械的に、事務的に「無視」されていた。

 さらに、添付資料として要求していた「入札選定会議の議事録」に目が止まった。  その瞬間、翔は言葉を失った。

 真っ黒だった。

 日付とタイトル以外の、ほぼすべての行が、黒いインクで塗り潰されていた。  いわゆる「のり弁」。  議論の過程も、誰が何を発言したかも、評価点がどうつけられたかも、全てが闇の中だ。  欄外に小さく、不開示の理由が記されている。

『当該法人の権利、競争上の地位その他正当な利益を害する恐れがあるため』
『公にすることにより、率直な意見の交換が損なわれる恐れがあるため』

 翔の手が震えた。  紙を持つ指先が白くなるほど力を込めた。  これは回答ではない。嘲笑だ。  
「お前ごとき新人議員に、見せる情報は一行もない」
「お前が何を調べようと、我々痛くも痒くもない」
そんな、霞が関からの冷徹で無言のメッセージが、黒いインクから立ち上っていた。

「ふざけるな……ッ!」

 バンッ!  翔は答弁書を床に叩きつけた。紙が虚しく散らばる。
「俺は国会議員やぞ! 国民の代表として聞いてるんやぞ! なんでこんな子ども騙しが通用するんや!」

 部屋中に怒声が響いた。  悔し涙が滲む。谷岡社長の泣き顔が脳裏をよぎる。  この黒塗りの紙切れ一枚のために、あの人は会社を畳まなければならないのか?

 怒りで顔を紅潮させ、肩で息をする翔を、部屋の隅から冷めた目で見つめる男がいた。  政策秘書の沢渡(さわたり)だ。  彼はゆっくりとコーヒーをカップに注ぎ、湯気を立てていた。  元・国土交通省のキャリア官僚。霞が関を早期退職し、数々の議員事務所を渡り歩いてきたプロフェッショナルだ。感情を表に出すことは滅多になく、常に事務的で、どこか世の中を達観したような空気を纏っている。

「先生。落ち着いてください。血圧が上がりますよ」
「落ち着けるか! これを見ろ、沢渡! こんなもん、国会に対する冒涜やないか! 国民への背信行為や!」
 翔は床に散らばった黒塗りの紙を指差して叫んだ。

 沢渡は音もなく近づき、散らばった書類を一枚ずつ丁寧に拾い上げた。  その動作は、まるで散らかったゴミを片付ける清掃人のように淡々としていた。

「背信、ですか。……先生。官僚という生き物を誤解されています」
「誤解やと?」
「ええ。彼らは別に、先生を馬鹿にしているわけでも、悪意を持って隠しているわけでもありません。ただ『処理』しただけです」

 沢渡は拾い上げた答弁書をデスクの上に置き、指先でトントンと揃えた。 「官僚にとって、無所属上がりの一年生議員なんてものは……行政機構という精密機械に入り込んだ『一時的なノイズ(雑音)』に過ぎないんです」

「ノイズ……」  翔は呆然と繰り返した。

「彼らは知っています。先生のような熱血漢が、次の選挙で落ちる確率が高いことを。あるいは、半年もすれば派閥の論理に取り込まれて、二度とこんな青臭い質問をしなくなることを」
 沢渡は眼鏡の位置を直し、翔を直視した。その瞳は、深海のように暗く、静かだった。
「彼らは忙しいのです。明日いなくなるかもしれない人間の相手をするほど、暇ではありません。だから、前例踏襲の定型文と、黒塗りのコピーで『処理』する。それで終わりです。そこに感情はありません」

 沢渡は、黒塗りの資料を指先で弾いた。カサッ、と乾いた音がした。

「彼らにとっての『国民の代表』とは、予算の決定権を握っている族議員のドンか、自分たちの人事を握る官邸の幹部だけです。今の先生には、彼らを動かす『力(予算・人事)』もなければ、怖がらせる『毒(スキャンダル追及力)』もない」

 翔は反論しようと口を開いたが、声が出なかった。  喉元まで出かかった言葉が、全て飲み込まれていく。  正論だったからだ。  あまりにも残酷で、身も蓋もない真実だった。

 この金色のバッジをつけていれば、世界が変わると思っていた。  正義という剣を持ったつもりでいた。  だが、実際には、分厚いコンクリートの壁に向かって、素手で殴りかかっていただけだったのだ。壁の向こうの住人は、ノックの音にすら気づいていない。

 急激に、力が抜けていく。  翔は、椅子に崩れ落ちた。

「……じゃあ、俺はどうすればいいんや」
 翔の声が、弱々しく響いた。
「地元の社長に、『役人に無視されました、すみません』って言えばええんか? それで納得しろって言うんか?」

 沢渡はコーヒーを翔の前に置いた。黒い液体が揺れている。
「今は、耐えることです」  沢渡は静かに言った。
「力をつけるまでは、牙を見せないこと。……あるいは、彼らが無視できないほどの『悪魔』になるか」

「悪魔……」
「ええ。清廉潔白な正義の味方ではなく、毒を以て毒を制す、政治という名の修羅になる覚悟があるかどうか。……今日のところは、このコーヒーでも飲んで、頭を冷やしてください」

 沢渡は一礼して、給湯室へと戻っていった。

 デスクの上には、黒塗りの文書が、まるで墓標のように置かれていた。  翔はその黒いインクの深淵を見つめた。  自分が信じていた「民主主義」というシステムが、音を立てて崩れていく気がした。

 正義だけでは、一枚の扉も開かない。  涙も、怒りも、論理も、この街では何の意味も持たない。  必要なのは「力」だ。  相手をねじ伏せ、言うことを聞かせるだけの圧倒的な「力」。

 翔は、苦いコーヒーを一口すすった。  その味は、これから彼が飲み込んでいかなければならない泥の味がした。  これが、この国の心臓部のリアルだった。    無力感に打ちひしがれる翔だが、運命は彼を休ませてはくれない。  彼が望んだ「力」への誘惑は、思いもよらない形で、すぐそこまで迫っていた。


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