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哲学とユーモア


男はダンベルを握りながら、世界の構造について考えていた。

ベンチプレスのバーが胸に触れる直前、ふと疑問が浮かぶ。

——人は、なぜ働くのか。

押し上げる。重い。だが押す。

生きるために働く。
それは常識だ。疑う余地もないほどに。

だが次の瞬間、男は思う。

——じゃあなんで、働きすぎて死にそうになってるんだ?

バーが揺れる。

これは設計ミスじゃないか。
いや、バグかもしれない。社会というシステムの。

男はゆっくりとバーを戻した。

ふと周りを見ると、同じように息を切らしながら鉄を持ち上げている人間たちがいる。
誰も疑っていない顔だ。

「努力は裏切らない」

壁に貼られたポスターがそう言っている。

男は笑った。

——いや、裏切るだろ。

思い返せば、努力しても報われなかったことなんて山ほどある。
むしろ、報われない方が多い。

だが。

筋肉だけは違った。

やればやるだけ応えてくる。
裏切らない。逃げない。言い訳もしない。

「結局、信用できるの筋肉だけじゃね?」

誰に言うでもなく呟く。

その瞬間、少しだけ世界がシンプルになった。

人は分かり合える、なんて言葉も思い出す。

——本当か?

分かり合えるなら、なぜ人は離れていく。
なぜ、愛したはずの人間と、他人になる。

それでも人は言う。
「分かり合える」と。

男はダンベルを持ち上げながら、また笑った。

——分かり合えてたら、その制度いらないだろ。

重さが、少し軽く感じた。

ふと、頭の中にもう一つの声が響く。

「お前はもっとできる」

よくある言葉だ。
自己啓発本でも、上司でも、やたらと言ってくるやつだ。

男は一瞬、真面目に受け止めかけて——やめた。

——いや、具体的に何を?

「もっと」ってなんだ。
あと5キロか?10キロか?
それとも急に人格までアップデートされるのか。

もし「もっとできる」が本当なら、
昨日サボったスクワットの分も、もうできてるはずだろ。

だが現実は違う。

ちゃんと今日もキツい。

つまりあれだ。

「お前はもっとできる」じゃない。
「お前は、やればその分だけできる」だ。

当たり前すぎて、誰も言わないだけだ。

男は苦笑する。

——夢がないな。

だが、その夢のなさが、逆に信用できた。

幻想は軽い。
だが現実は、ちゃんと重い。

この重さは嘘をつかない。

哲学は、重い。
だがユーモアは、それを持ち上げる。

まるで筋トレみたいだ、と男は思う。

重たい現実を、そのまま受け止めたら潰れる。
だから少し角度を変えて、笑える形にする。

すると不思議なことに、持てる。

人生も同じなのかもしれない。

変わりたいと言いながら、昨日と同じ自分でいる。
それを繰り返している人間たち。

——冷静に考えて、ホラーだよな。

だが男は、そのホラーの中にいる。

だからこそ、笑うしかない。

笑って、持ち上げるしかない。

最後の一回を押し上げながら、男は確信する。

この世界は完璧じゃない。
むしろ欠陥だらけだ。

だが。

だからこそ面白い。

バーをラックに戻し、男は息を吐いた。

そして静かに思う。

——まあいいか。

少なくとも筋肉は裏切らないしな。

あと、もう一つ。

「もっとできる」とか言ってくるやつより、
ちゃんと重さを教えてくれるダンベルの方が、よっぽど誠実だ。

それだけで、今日を続ける理由としては十分だった。

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