リルケの聖なる物語の輝くような体験~森谷真理&務川慧悟 ヒンデミット「マリアの生涯」他(2026/5/26 王子ホール)
強烈な印象を与えられたコンサートだった。
まずは作品のインパクト。
聖母マリアがどのような生涯を送ったのか、その生まれから死に至るまでを、リルケが詩による美しい物語として描写し、ヒンデミットが驚くべき含蓄深い歌曲集に仕上げていた――。
それを、これほどまでに艶やかで完成度の高いライブ・パフォーマンスで体験できたのは何と幸いだったことだろう。
歌曲集「マリアの生涯」は、かのグレン・グールドの録音(ロクソラーナ・ロスラックのソプラノ、1976~77年)で知られてはいるものの、グールドのファンの多くにとっては喉に刺さった小骨のような存在かもしれない。
ちなみにグールドの録音は1922/23年初版で、今回のコンサートでは作曲家がより完成度を高めた1948年版によるもの。
森谷真理の歌と務川慧悟のピアノは、ほとんどの局面において遠隔した音どうしの関係にありながら、素晴らしい調和を示していた。
ピアノは全く伴奏の域にはない高度な充実ぶり。
歌とピアノの離れた自律的な音どうしが、孤高の雰囲気とともに、何と美しく響き合う関係にあったことだろう。
これは、単なる絶対音感とか正しい音程とかという次元をはるかに越えた、真に美しい和声感覚をもってピアノとともに存在することのできる、本当の音楽家であり声楽家によってこそ、なしうる歌唱だったと思う。
いまどんな音を歌っているのか、歌おうとしているのか、特に現代作品では聴いていてもよくわからない歌唱に出くわすことも正直あるのだが、森谷真理の歌にはそんな瞬間はまったくなかった。
完璧なレンズが結ぶように声の音楽的焦点がピシッと合っていて、しかも抑制された弱音の美しさが半端ではない。
務川慧悟のピアノは、ヒンデミットの書いた対位法的な面白さを、ドラマティックかつ雄弁に伝えた。
長いソロ・ピアノ部分もしばしばあったが、これはある意味ソロ・リサイタルよりも大変な聴きものだったのかもしれない。
幾つかの曲では、これはまるでルオーの宗教画のようだと思った。聖書には書かれていない外伝のような場面でありながら、そこには訥々と飾らずダイレクトに信仰の心を伝える、古い物語のトーンがあるから。
そういえば、森谷真理の着ていたドレスは、赤と金の装飾的な古代風で、聖なる物語を歌うのにこれ以上のものはないというくらいに美しかった。
まるでモローの象徴派絵画から抜け出してきたような衣装のおかげで、どれほどヒンデミットの音楽とリルケの詩の世界に入っていくのを助けられたことか。
後半のメシアンの歌曲集「地と天の歌」(1938年)は、より豊麗で色彩感のある、ヒンデミットに比べるとゴージャスなくらいの響きを堪能した。
ここでの森谷真理の歌には単に超絶技巧というだけでなく、歌うことの感覚的な悦びと無上の幸福感があって、その輝きには目もくらむような思いがした。
無論、あれほどの歌を実現するためには想像を絶する鍛錬があったはずなのだが、そんなそぶりは露ほども見せず、ステージには水さえも用意せず、長丁場をいささかの声の翳りも見せずに、森谷は一層艶やかに歌い続けた。そこには音楽だけが息づいていた。
アンコールで歌われたラヴェルの「ハバネラ形式のヴォカリーズ」では、この作曲家を得意とする務川のピアノにのって、まるで虹のようにふんわりと森谷の声が描く曲線の余韻は、今も耳に残っている。
リルケ&ヒンデミットによる歌曲集「マリアの生涯」が素晴らしいのは、聖書で少ししか触れられていないマリアという謎めいた人物を、聖母としてひたすら崇めるだけでなく、その生誕から死までを人間的な物語として創造した点にある。
ここから先は、聖書には書かれていないが、さまざまな聖伝や絵画を参考にしつつリルケが創造したマリアの物語の一部である。
当日配布の対訳と解説(舩木篤也氏)に加え、幾つかのCDの解説や対訳、原文からのAI翻訳も参考にしつつ、私なりに要約してみた。
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