独りよがりの「伝えるための準備学」書評
古舘伊知郎・著「伝えるための準備学」読了。
ずっと応援し、敬愛する田中泰延氏率いるひろのぶと株式会社からの出版ということもあって、期待度MAXで手に取った。
今回はひろのぶと株式会社のオンラインショップで取り寄せた。
本屋に行ってしまうと本の購入を我慢している堰が崩壊して他の欲しい本の渦に呑まれてしまうからだ。
さて、ひろのぶと株式会社から荷物が届き、

早速開く。

ひろのぶとオンラインで購入したのには、副読本という特典に惹かれたという理由もある。
まずは奥付を見る。
こんなことあまりしない。
しかし、実際奥付を見て思った。これは引き寄せられたのだ、と。

これは、チーム「かくちか」(=「『書く力』の教室」)じゃないか!
ますます膨らむ期待。
しかし、その内容は期待を遥かに超えていた。
なんというか、紙面の上で文字が喋っているのだ。
古舘氏のあのマシンガンも及ばないトークによる講義が、紙の上で繰り広げられているのが聴こえる。
オーディブルで聴いているかのような、ほかにない唯一無二の読書体験。
古舘氏が自身の実況やMCに向けた準備、そしてこれまでの歩みを、あの軽妙な語り口で実況している。
そうとしか思えない。
だからあっという間に終章まで駆け抜けてしまう。
読後感をなかなか上手くまとめられないが、安心感があったのは間違いない。
あの古舘節が、並外れた準備とそれによって脳の奥底に溜まる“沈殿”から産まれるという事実に、どこか安心を覚える。
逆を言えば、そこまで準備して初めてちゃんとしたオリジナルになるということでもある。
オリジナルとして評価される“表現”の陰には、それが評価され得るだけの土台が表に出ている部分の何倍もの“沈殿”がある。
その沈殿を産むための準備がどれだけできているかで、オリジナルの質が決まる。
この準備の大切さは、「読みたいものを、書けばいい」や「『書く力』の教室」の内容にも通ずる。
改めて身が引き締まる思いだ。
形こそ“書く”と“話す”の差はあるが、アウトプットのためにその何倍ものインプットが必要であるのは共通項だということだ。
そして、おそらくそれは、泰延氏が常に大切にしている心構えなのだろうとも思った。
古舘氏が同じ心構えで“喋り屋”に邁進していることを知っているから、ひろのぶと株式会社でこの本を出すに至ったに違いない。
それにしてもまた思うのは、自らの不足である。
準備が足りない。
というか、そもそも「準備している場合でない」とサボっているではないか。
でもそれが現状。
無理が通れば道理がひっこむの逆で、道理を通すから無理が効かないのだ。
何を読んでも(は言い過ぎだが)ハイパー児童館ぷれいす構想の足踏みに結びつけるのもいかがなものかと思わないでもないが、どうしてもそこは引っかかってしまった。
実現は遥か遠くても、今できる、今すべき準備があるはず。
焦る必要はないが、誤魔化して逃げていては駄目だ。
古舘氏が終章で綴った「人生とは『死に向かう準備』である」という言葉、重みはあるが納得である。
だからこそ、多くの人の心に“良き先達”として生き続けられる人生の終わりを迎えられるよう、しっかりと準備したい。
「準備とは未来を生きること」
この言葉も胸に刻み、明日もまた生きていく。
上梓を記念した古舘氏と泰延氏のトークショーがあった。会場はお馴染み“本屋B&B”。

行きたかった。生古舘節に酔いしれ、ミーハーにサインをもらいたかった。
しかし、日取りが…
8月3日…土曜日…
その日は…

我が家の年中行事の一つ、いたばし花火鑑賞ナイトピクニックの日…
まさかの丸かぶり…
仕方ない、アーカイブで拝聴しよう。
「伝えるための準備学」はより良い“生”の在り方の一つの解である。
何度も読んで染み込ませたい。
ナイスオレンジ!
