【小話】魔性の刑事「平井さん」②-1
とあるアパートの玄関前を黒スーツの男達が囲っている。
奥のリビングで向き合うのは、この部屋の住人である家族の父親らしき男と、インテリヤクザ風の眼鏡の男。
眼鏡の方は、悪名高き高利貸「昭和商会」の若き二代目・若林だ。
借金返済期限をとうに過ぎても詫びの連絡さえ寄越さない男が、どうも夜逃げの準備をしているらしいと部屋の見張り役の社員から報告を受けたのが今日の昼過ぎ。ならば二代目社長としてきっちりと落とし前を着けさせなければと、わざわざ男の家まで出向いてきたのだ。
利息どころか貸した金すら返さない男は、ギャンブルで儲けて追々倍返しするつもりだったと釈明するが、そんな都合の良い道理が通じる筈はない。明らかに自分よりも若い相手だと見くびっての言動だろうが、この二代目が相手では残念ながら火に油であった。
「返す気がないならお前んとこのガキを攫って売ってやろうか」
怒号が飛び交い、リビングにあった家具が耳障りな音を立ててあちこちに散乱した。一連の乱闘で若林は腕に軽い怪我をしたが、そんなものおかまいなしに父親を殴り続けた結果、足元に血だらけで白目を剥いたサンドバッグがひとつ出来上がった。
やがてその家の誰もが存在を忘れていた祖母らしき女がスマホで110番し、若林は警察へ連行され、サンドバッグは病院へと担ぎ込まれていった。
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サンドバッグ、もとい父親の方は退院後に追々取り調べを受ける事になったらしい。
そして今、ここは警察署の取り調べ室。
机を挟んで若林の向かいに座っているのは、見た目40前後の中年刑事だ。
部屋の入口付近にも、もう一人若い刑事がいる様だが、若林は気にも止めていない。だが、それよりも、だ。
何だこの刑事は。
いかにも眠た気な顔に、無精髭。首元はだらしなく開き、かろうじて引っ掛かっている朱色のネクタイも形崩れして無様な有り様。これはあくまで若林の予想だが、きっと三日くらい風呂に入っていないに違いない。
こいつ本当に刑事か?と、超の付く潔癖サイドにいる若林は、身だしなみが最悪なこの男の姿を見ているだけで不快になっていた。しかも取り調べだというのに、目の前の容疑者である自分を一度も見ずに、ただひたすら、かったるそうに書面だけに視線を流している始末だ。
激しく時間の無駄だった。苛立を募らせたつま先が、机の下で毎秒四往復の勢いで左右に揺れているが、刑事はそんなものはおかまいなしと言った体で気怠そうに調書の紙を捲り続けている。
だが、若林の個人情報を読み込んでいた目が、ふと何かを思い出す様に一瞬だけ遠くなった。しかしそれも束の間、すぐにとぼけた顔に戻り、意外と良い声で報告書を読み上げ始めた。
事件のいきさつは、借金を返さないギャンブルまみれの父親が「息子を攫うぞ」と脅した途端逆上し、台所にあったナイフで若林に斬りかかってきたのだというものだった、のだが。
「違うだろ」
刑事は溜息と同時に、手元のファイルを閉じた。
「お前さんが「息子を攫う」と云った話にあの父親は乗ったんだ。それでお前さんはブチ切れてアイツに殴り掛かった。父親は驚いて、台所に置きっぱなしの包丁でとっさに自分をガードした。つまり傷害罪じゃなくて正当防衛なんじゃないかな」
まるで現場を見ていたかの様な解像度の高い物言いに、若林は一瞬言葉を失った。しかし動じていない素振りを装いながら、これは警察の誘導尋問だろうと冷静に考えていた。
きっとマニュアル通りに、何かしら適当な事を言ってこちらを動揺させ、マウントを取る気でいるに違いない。
「あいつのガキを攫うと言って、なぜおれが逆上しなきゃならねえ」
「そりゃ、お前さんが一番良く知ってるんじゃないのか」
「だから、何故」
「お前さんがそのガキだからだろ」
多分、などと言いながら、刑事はワイシャツのポケットから煙草を取り出した。するとそれを合図にしたかのように、ドア付近に控えていた若い刑事が部屋の外へと出て行った。
「これをやらんと頭回んなくてさ。悪いが見なかった事にしてくれ」
若林の返事も聞かずに勝手に口に銜え、勝手に安物のライターで火を点け、勝手に美味そうに吸い始めた。
世の中は分煙が常識となっているのに、この取調室だけが昭和の遺物の様な錯覚を覚える。しかし警察がこれでいいのか。
「折角だからカツ丼でも食うかと言いたい所だが、つまらん法律でできなくなっちまってな。昔は経費で落とせたのに残念だよ」
そう言いながら、あっという間に灰にした煙草の火を指先で弾いて消す。パラパラと舞う白いカスが目の前まで飛んで来て、若林は思わず舌打ちをした。ただでさえ埃臭い取調室の空気が、より一層不潔さを増した様な生理的不快感と相まって、若林の苛立はいよいよ沸点のニアピンゾーンにまで達していた。
「さっきからいい加減な事言いやがって」
「本当さ。取調べ中のカツ丼は賄賂に当たるから禁止なんだとよ」
「そっちじゃねえよ!」
ガンと派手な音を立てて若林の靴底が机の脚を叩いた。
一瞬背後のドアノブが鳴った気がしたが、人が入った気配もない。それどころか目の前の刑事は驚いた風でもなく、机上に落ちたままの煙草の灰を暢気に掌で払い落としている。
「なんだ、本当に覚えてないのか。まあ20年も経ってりゃ酷い記憶も少しは薄れたって事か」
良い傾向だ、などと、また訳の分からない意味深な言葉だ。
ここが警察署でなければ机や椅子をぶん投げて、目の前のふざけた男を、この部屋の隠れ鏡の向こう側で自分たちを見ているであろう他の刑事連中ごとまとめてぶちのめしてやりたかった。しかし再び勢い良く蹴飛ばした机を、刑事は「おっと」等と言いながら慣れた手つきで華麗に受け止めてしまう。
「あんな目に遭っても父親の跡を継いだのか。血ってのは恐ろしいよな」
「なんだと」
初めて地声が出た。怒りが理性を凌駕する直前のサインだ。
それを聞いて刑事はようやく、恐らくはこの部屋に来て初めて若林に視線を向けた。
真正面から、ゆっくりと見据える様に。
無言で睨み返していた若林だが、ふと不思議な感覚を覚えた。
目の前の刑事の瞳の色が、少し青みがかっている事に気付いたのだ。
どこかで見た事のある色。
それは若林の記憶の、最も深い場所にある忘思慕の欠片と非常によく似た虹彩をしていた。
つづく
初出典:Note(2026年1月16日)
