見出し画像

雑感「ざっくり村上春樹論」

最近、村上春樹の『夏帆』という長編作品が出て、ハルキストを中心に盛り上がっています。毎回そうですが春樹の新作が出るたびに話題になり、もうずっと長いこと日本文学界の代表者として君臨され続けていますよね。(もう80歳近くでまだ長編を生み出せるエネルギーには脱帽です)

今作は未読ですが、自分もかつて学生時代に夢中で読んでまして、村上春樹全作品集とかいう大部な書物を片っ端から全て読み漁るぐらいハマってました。

そこで今回は、かつて自分が感じていた村上春樹の魅力や、社会人になってから感じている疑問も交えつつ、ざっくりと作品の功罪についてまとめてみようと思います。


まず、村上春樹の小説を読んでいると、他の作品では味わえない不思議な感覚に包まれることがあります。たとえば果てしなく続く深い井戸の底へ降りたり、空に月が二つ浮かぶ世界に迷い込んだりなど、現実とファンタジーの境目が読んでて曖昧になってきます。

この「別の世界に連れていかれる感覚」こそ、村上文学のいちばんの魅力です。日常の自分からふっと切り離され、もう一つの現実を漂うのは一定の心地よさがあり、ある意味で癒しだと思います。

自分が学生の頃、つまり子どもの空想癖と大人の現実主義の狭間にいた頃には、そのような曖昧さは共感を覚える魅力がありました。

ただ学生が終わり社会人になってから感じるのは、その癒しは現実を生きる力になっているのか?という疑問です。物語の世界から戻ってきたとき、私たちの手には何が残っているのか。もしかするとそれは、一見して上質な体験に見えるけど、実は一時的な現実逃避に近いのではないでしょうか。

要するに、深く感動した気になれるけれど、それは現実と格闘して傷つきながら得た本物の感動ではないのでは?という疑いを、社会人になってから強く感じるようになったのです。

主人公たちの姿も、この疑いと重なります。基本的に彼らは、かつて自分が失った何かを静かな日常の中でただ待つ人たちです。自分から積極的に行動しようとせず、社会に対しても深く関わろうとしません。

読者は主人公に寄り添いながら、現実の自分は何も変えないまま、喪失と回復の物語を疑似体験できて心地良いのだと思います。ただ、春樹風の世界になぞらえて言うと、その回復は井戸の中でしか使えない通貨のようなもので、地上では換金できないのかもしれません。

一方、心理学者の河合隼雄さんとの対談本で、物語の世界へ深く降りていくことが心の再生につながる、と河合さんが村上作品を高く評価されていました。井戸に降りるのは逃避ではなく、現実に戻るための回り道だ、という考え方です。

ただ、その評価に対しても一定の疑問があり、読者が受け取っているのは、現実と関わる力そのものではなく、「関わった気分」だけではないか、という見方もできます。

結局のところ、村上文学は「降りていく」ことにかけては見事でも、「昇って戻る」部分は読者に委ねられているのだと思います。井戸の底で味わった深さを、自分の生活にどう持ち帰るか。そこを疎かにすると、読書は甘い逃避で終わってしまいます。

村上春樹を読む楽しみを手放す必要はありませんが、その楽しみを前に進む力に変えられるかどうかは、作品ではなく、井戸から這い上がる私たち次第なのだと思います。


🔽他の雑感もぜひご覧ください

いいなと思ったら応援しよう!