【短編小説】時差の鏡
洗面所の鏡には、昨日の僕が映っている。
そう、これは昨日の僕だ。
時差だ。
このことに気づくまでに、僕はきっと数か月を要したのだと思う。
いや、正確なところはわからない。
もしかしたらこの家に引っ越してきてからずっと、この鏡には時差があった可能性もゼロではない。
どうしてこんな驚くべき大発見に気づくのが遅れたかといえば、僕が毎朝ほとんど同じ時間に同じ行動をとっているからだ。
朝起きてまず歯を磨き、顔を洗う。
まだ頭は半分寝ている。
鏡なんて凝視はしない。
似たようなジャージで寝ているから、ぼーっと鏡を見ても違いなんていちいち意識しない。
気づいたきっかけは些細なことだった。
ある朝、寝癖が気になって頭に手をやった。
いつもはそんなことはしない。
髪を整えるのは出かける寸前だから。
本当に何も考えず、なんとなくの行動だった。
するとどうだろう。
鏡の中の僕は、歯磨きを始めたのだ。
「うわっ!!」
一人暮らしのアパートに、僕の短い悲鳴が駆け巡った。
三十を迎えた大人の男が朝から悲鳴を上げるなんて、よっぽどのことだと思われる。
だけどこれはよっぽどのことなのだ(幸い、近所からの苦情や心配の声はなかった)。
にわかには信じがたいこの事実を受け入れるには、時間がかかった——なんてことはなかった。
なぜか僕は、それをすんなり受け入れた。
なるほど、こういうこともあるかもしれないな。
なんて具合に。
だって鏡は不思議な世界の入り口だ。
小学生の頃読んだ本に、そんな話があったのだ。
その本に出会ってから、僕は読書という唯一の趣味を手に入れた。
変わり映えしない窮屈な毎日でも、本の中に逃げ込めば少しだけ息ができる。
鏡の時差に気づいたその日、僕は事あるごとに洗面所へ足を運んだ。
そして知った。
昨日の僕が映るのは、どうやら寝起きの、あの朝の時間だけのようだ。
どおりで気づかないわけだ。
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「おはよう。昨日の僕」
僕の一日は、この挨拶から始まる。
「昨日は大変だったよな」
そんなふうに話しかける。
だから、洗面所にいる時間が長くなった。
最初のうちは先にいなくなる前日の僕に「待ってよ」と言いながら、誰も映っていない鏡に向かって話すときもあったけれど、今はだいたい毎日同じ時間をここで過ごしている。
一人反省会になることはなくなった。
「僕」は「僕ら」になった。
「急に呼び出しがかかるんだもんな。あのお客さん、いつも急なんだよ。前もって言ってくれればいいのに、今日言われて明日までなんて、特急料金を上乗せしたいよ」
僕が話すと、昨日の僕の口も動く。
それを見て、そういえば昨日はあんなことを話したっけ。
そんなことを思い出す。
たしか昨日は、一日の仕事の段取りを話したはずだ。
二十四時間前にここで話した仕事のタスクのうち、やり残したことが二つある。
予定外の仕事が舞い込み、残業をしても終わらなかったのだ。
「いやいや。よくやったよ、昨日の僕。本当に頑張った」
自分を慰め、励まし、讃える。
親友の話を聞くときのように(親友という存在があまりよく分からないけれど)、僕は昨日の僕と心を通わせる。
この朝のわずかな時間を持つようになってから、不思議と余裕が生まれた気がする。
心の余裕もそうだけれど、特に時間的余裕。
昨日残した二つのタスクも、今週中に終わらせれば問題ない。
「じゃあ、今日のタスクは合計で五個かな。もし時間が余ったら、マニュアルの整備を進めよう」
僕が頷き、昨日の僕も頷く。
昨日が終わり、今日が始まるのだ。
昨日の愚痴も大変さも、ここで区切りをつけられるようになった。
今日起こるかもしれない理不尽な出来事も、明日のこの時間に今日の僕に吐き出せば、そこで気持ちの切り替えができる。
そう思うだけで、少しだけ気分が軽くなる。
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昨日の僕との密会を始めてから半年ほどが経った。
仕事は順調……とまでは言えないけれど、少なくとも最悪ではないと言い切れる。
やることが増え続けた結果、今はチームリーダーのようなポジションを任されるようになった。
「仕事ってやればやるほど回ってくるの、なんなんだろう。やらないやつは仕事が全然増えないんだよな」
愚痴を吐けば、昨日の僕が「わかるよ」と言わんばかりに受け止めてくれる。
「まあ、その分給料も上がったんだけどさ」
仕事ぶりが認められるのは、当然悪い気分ではなかった。
そこに給料がついてくるのなら、なおさらのこと。
だけど楽しいことばかりではない。
人をまとめるというのは、想像以上に難しい作業だった。
自分一人が頑張ればなんとかなるものではないし、的確な言葉で伝えなければ人は動かない。
「昨日の指示は、具体性に欠けてたか。自分には当然だと思うことも、人によって違うもんなあ」
思えば、愚痴よりも反省や振り返りの方が圧倒的に多くなっている。
「指示書みたいなテンプレートを作っておくのもアリだよな。そこに記入して渡せば、抜け漏れなく指示を出せるかもしれない」
そして改善案も、ここで生まれることがほとんどだ。
「よし。じゃあ今日時間ができたら、指示書のテンプレートを作るってことで」
話はまとまり、僕らは頷き合って今日を始める——はずだった。
ふと、小さな違和感に襲われた。
鏡を覗き込むように顔を近づけると、鏡の中の僕も同じように近づいてきた。
違う! これは今の僕だ!
鏡は普通の鏡になっていた。
昨日の僕はそこにいない。
僕が手を動かしたとおりに動き、同じタイミングで口を開く。
「どうして急に?」
そんな言葉もただの独り言になっていた。
いつから昨日の僕に会っていなかったのだろう。
もしかすると、これまで昨日の僕と会話をしていたと思っていたこと自体が勘違いだったのか?
今となっては、そんな気さえしてくる。
少しだけ途方に暮れる。
そして大きな寂しさを覚える。
鏡に手のひらを付けてみる。
僕だ。
今ここにいる僕だ。
だけど次の瞬間、今は過去になる。
そう思うと不思議な感覚になった。
もしかすると「今」なんてものはないのかもしれない。
時間の概念が、ひどく曖昧に感じられた。
鏡に触れた手が冷たい。
眩暈が起こりそうな感覚がする。
今は過去で、だとしたら今は未来でもある?
よくわからない。
考えながら、何を考えているのか収集がつかなくなった。
だけど……。
鏡を覗き込む。
そこにいる僕と目が合う。
「おはよう、どこかの時間にいる僕」
もう一度挨拶をする。
これまで鏡の前で何度も繰り返してきた挨拶だけれど、相手だけが変わった。
昨日に限定しない、すべての僕に向かって、僕は話しかける。
だって、過去でも現在でも未来でも、そんなものは関係ないんじゃないか?
僕は僕だ。
どこの時間軸をとっても、僕であることに変わりはない。
それならばここに映る僕は、過去であり現在であり未来でもある。
だから、僕の都合のいいように考えよう。
未来の自分に話しかける日もあれば、過去の自分に話しかける日もある。
全部、僕の自由だ。
「じゃあ、今は未来のことを話そう。そうだな。一年後、僕は本を出してみたいんだけど、どうだろう?」
鏡の中の僕は何も言わない。
言わないけれど、伝わっている気がした。
繋がっている気がした。
「それなら、今から原稿を書き始めなくちゃね」
僕がそう言って頷くと同時に、鏡の中の僕も頷いた。
そうだよ、そういうことだよ。
一年後は決まった。
だから今できることをやる。
もしかしたら気まぐれな時間軸は一年後を三年後にするかもしれないけれど、それだって別に構わない。
その分、同じように決めた何かが、三か月になるときだってあるかもしれない。
そして何かに躓いたらその都度、僕は僕に話しかければいいだけだ。
僕はいつだって「僕ら」なのだから。
そうだな。
まずは昨日の僕と出会った話を書こう。
この嘘みたいな、本当の話を。
