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【鎌倉府】鎌倉府の政治組織はどのようなものであったのか?〔パート1〕

こんにちは、Naoです。

今回からは鎌倉府の政治組織がどのようなものであったのか書いていきたいと思います。

鎌倉府に関しては前回の記事を参照していただけたらなと思います。

1、はじめに

前回は鎌倉公方や古河公方など東日本に存在した公方について見てきました。

その下には鎌倉公方を補佐する関東管領(かんとうかんれい)や公方に代わってそれぞれの国を治める守護(しゅご)などという組織がありました。

しかし公方と関東管領は時には対立し、時には協力しながら歴史を歩んできました。

今回からはその関東管領や鎌倉府の政治組織について見ていきたいと思います。

2、関東管領

1、役割

関東管領は南北朝時代に上杉憲顕(うえすぎのりあき)が務めてから上杉氏が代々担っており、鎌倉公方の補佐をしていました。


上杉氏 系図

それ以前は関東執事(かんとうしつじ)という役職があったそうですが、今回は関東管領に注目していきたいと思います。

関東管領の職務としては公方の命令を伝達するというものが大きく挙げられます。

また訴訟の手続きやそれを担当する奉行人(ぶぎょうにん)の選定なども行いました。
奉行人については次回辺りでで触れていきます。

この関東管領は公方の補佐という立ち位置でありながら任命するのは室町幕府(むろまちばくふ)の将軍でした。

そのため関東管領は幕府と公方の間を取り次ぐという役目もありました。

また上杉憲春以降は武蔵守護職(むさししゅごしょく)も兼ねていました。

つまり武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の県知事的な役割も持っていました。

2、歴史

ここからはこの関東管領上杉氏の歩んだ歴史を見ていきたいと思います。

上杉氏は家系図を参照にしていただきたいのですが、山内家(やまのうち)や扇谷家(おうぎがやつ)、犬懸家(いぬかけ)などたくさんの分家がありました。

関東管領を世襲(せしゅう)していたのは主に山内家、犬懸家でした。

しかし犬懸家は15世紀前半の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)によって没落します。

先ほど見たように上杉憲顕の代から関東管領に任命されるようになった上杉氏でしたが、鎌倉公方としばしば対立していました。

その代表例として永享の乱(えいきょうのらん)や享徳の乱(きょうとくのらん)が挙げられます。

これらの戦いについては今後詳しく書いた記事を挙げようと思いますが、簡単に解説していきたいと思います。

永享の乱では関東管領上杉憲実(うえすぎのりざね)と鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)が対立し、幕府の協力を得た上杉憲実が勝利し、足利持氏が自害しました。

その後結城合戦(ゆうきかっせん)で足利持氏の子が擁立されて戦いますが、結局敗れてしまいました。

その後持氏の子の成氏が鎌倉公方となりますが、関東管領上杉憲忠(のりただ)を殺害したことで享徳の乱が勃発しました。

それにより成氏は古河に移り古河公方となっています。

詳しくは前回の記事を見ていただきたいです。

享徳の乱は和睦という形で終結しますが、その後長享の乱(ちょうきょうのらん)で山内上杉氏と扇谷上杉氏は対立します。

この戦いも和睦に終わりますが上杉氏は力を失っていき、この頃から台頭してきた伊勢宗瑞(いせそうずい)から始まる小田原北条氏によって追い詰められていきます。

北条氏3代目の北条氏康(ほうじょううじやす)に追い詰められた上杉憲政(のりまさ)は越後国の長尾景虎(ながおかげとら)に関東管領の座を譲り、助けを求めました。

長尾景虎は上杉政虎(うえすぎまさとら)と名乗って関東を攻略しようとしましたが失敗に終わり、その後関東管領は上杉氏のみならず北条氏なども名乗るようになりました。

この上杉政虎は後の上杉謙信のことですが、上杉謙信は長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、上杉謙信など何度も改名しています。

3、おわりに

このようにして歴史を歩んできた関東管領ですが、最後は権威を象徴する道具のような形で扱われていたように思えます。

公方も5代古河公方足利義氏(あしかがよしうじ)の時代には関東管領を名乗った北条氏の傀儡のような存在になってしまいますので、北条氏はこういった権威の象徴をうまく利用した形で関東に領土を拡大していったのではないでしょうか。

次回は関東管領以外の政治組織について見ていきたいと思います。

この記事が少しでも面白いと感じましたら、スキ、コメント、フォローよろしくお願いします。

今回からは頑張ってコメントも返したいと思います。

参考文献

杉山一弥『図説 鎌倉府』(2019、戎光祥出版)

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