1999年の日本と、1970年に死んだ未来人
1999年、インターネットがまだ珍しかった頃、三島由紀夫という名前はどこか特別な重さを持っていた。
そして2026年の今も、その重さの質はあまり変わっていない気がする。
note上でも三島の名前が出るたびに、右翼か、狂人か、という文脈で語られることが多い。
その度に少し引っかかりを感じていた。
ただ正直に言えば、自分も最初はそう見ていた一人だった。
自分が1999年に感じた違和感と、今も続くその誤解が重なって、一度書いておきたいと思った。
右翼、割腹、昭和の亡霊。
そんな言葉が真っ先に浮かんでいた。
近づきにくい、というより、最初から結論が決まっているような人物として認識していた。
熱狂的な信奉者か、あるいは完全に否定するか。三島という名前は、どちらかの立場を迫ってくるような圧力があった。
ところが少し調べてみると、印象がずいぶん変わった。
三島由紀夫は1925年生まれ、1970年に亡くなっている。
彼が生きたのは戦前から高度成長期にかけての日本だ。
その時代を背景に読むと、確かに「昭和の文豪」という括りも理解できる。
ただ、人間としての感触が、どうもその括りに収まらない。
調べれば調べるほど、昭和の人間というより、
もう少し別の時代に属している人間のような気がしてくる。
うまく言えないのだが、時代の中に収まりきれなかった人間、という印象に近い。
たとえば彼は、生の感情をそのまま出すことをひどく嫌っていた。
感情は必ず形式に変換して、演出として加工してから世界へ出す。
「素顔という仮面」という感覚を、彼は早くから持っていたらしい。
喜びも悲しみも、そのままの形では信用しない。一度自分の中で整えて、美しい形に直してから、ようやく外へ出す。
日記でさえ、読まれることを意識して書いていたと言われている。
これを読んだとき、少し驚いた。
それはSNSで自分を発信することに慣れた人間の感覚に、妙に近いからだ。
本音をそのまま出すのではなく、どこか整えてから出す。
自然体のふりをしながら、実は細かく計算している。
「自然体が最大の演技になる」という感覚は、1999年以降、日本人がじわじわと身につけていったものだ。
三島はその感覚を、何十年も前にすでに抱えていた。
彼はまた、自分の肉体にひどく不満を持っていた。
虚弱で、病弱で、文学青年の身体では自分の理想に追いつかないと感じていた。
だからボディビルを始め、剣道を始め、身体を後から作り直そうとした。
言葉で作り上げた理想の自分に、肉体を追いつかせようとした。
これは相当な意志のいることだったと思う。
もともとの体質に逆らって、別の身体を作り上げていく。
現代風に言えば、
セルフブランディングを肉体レベルでやった、
ということになる。
これも現代的だと思う。
プロフィールを整え、写真を選び、言葉を選んで自分を提示する。
アイコンを加工し、文体を磨き、「こういう人間です」という像を少しずつ作り上げていく。
三島がやったことは、それを肉体でやったようなものだ。
自分自身を、巨大な自己プロデュース作品として扱っていた。
しかも恐ろしいのは、彼がその虚構性をちゃんと理解した上でやっていたことだ。
わかっていて、それでもやめられなかった。
自分が作り上げた虚構に、自分自身が取り込まれていくような感覚を、彼はどこかで自覚していたのではないかと思う。
彼が武士道や天皇や肉体美にこだわったのも、
単純な右翼思想というより、「崩れそうな自己」を支えるための骨格として必要だったのではないかという気がする。
強い言葉や思想に接続することで、自分をなんとか立たせておく。
その感覚は、ネット空間で過激な言葉や断定的な物言いに人が引き寄せられていく構造と、どこか似ている。
弱さを直接見せられない分、強い物語に自分を預ける。
怒りや正義や冷笑といった、輪郭のはっきりした感情に乗ることで、自分の輪郭を借りる。
三島もまた、そういう人間だったのかもしれない。
ただ彼の場合、それがあまりにも巨大な方向へ向かってしまった。
ただ、現代人と三島には一つ決定的な違いがある。
現代の多くの人は、言葉や演出の中で完結する。SNSで語り、怒り、理想を語りながら、それはあくまでスクリーンの中に留まる。
三島はそれを肉体へ、行動へ接続してしまった。言葉に責任を取ろうとした、というより、言葉と身体の間に境界線を引けなかった人間だったのかもしれない。
言葉で作った理想が重くなりすぎて、最後には身体ごとそこへ持っていくしかなかった。
そう考えると、彼の最後はある種の必然だったようにも見える。
ただし、それは狂気というより、
「自分が作った言葉を最後まで手放せなかった人間」の話として読んだ方が、実態に近いような気がする。
狂人だから死んだのではなく、誠実すぎたから死んだ、とでも言うべきか。
もちろんそれが正解だとは思わない。
ただ、そういう読み方もできる人間だった、ということだ。
1999年という年は、バブルが崩壊してしばらく経ち、「日本は特別だ」という感覚がようやく静かに腐り始めていた時期だった。
会社も、国家も、経済成長も、かつて人々を支えていた大きな物語が少しずつ機能しなくなって、残ったのは「自分をどう見せるか」という問題だけになりつつあった。
ノストラダムスの予言が真剣に語られ、世紀末という言葉が妙なリアルさを持って浮かんでいた。コンビニの深夜、テレビの終末特集、
雑誌の「新世紀」という煽り文句。
街は明るかったのに、どこかが静かに空洞化していた。
社会全体が、次の足場を探しているような時代だった。
テレビはスキャンダルと終末を繰り返し、若者は未来よりも「自分とは何者か」という問いを先に抱えていた。
自分もその一人だったと思う。
何かに熱狂したいのに、熱狂できるものが見当たらない。
強い言葉に引き寄せられながら、その言葉を本当には信じ切れない。
そういう宙吊りの感覚が、あの時代にはあった。
その時代の空気の中で三島を読むと、妙なリアルさがある。
彼が抱えていた孤独や、自己演出への執着や、
強い言葉や思想へ引き寄せられていく感覚は、1999年以降の日本人が少しずつ経験し始めたことと、どこか重なって見える。
社会の大きな物語が崩れた後、人間は「自分をどう演出するか」という問題に直面する。
三島はその問題を、時代より何十年も早く抱えてしまっていた。
時代が追いついてきた、という言い方もできるかもしれない。
1970年に彼が死んだとき、日本社会はまだ高度成長の残熱の中にいた。
会社が、家族が、経済が、まだ人々を支える力を持っていた。
だから三島の抱えていた孤独は、当時の多くの人にはうまく伝わらなかったのかもしれない。
しかし1999年には、その残熱がほぼ冷めていた。
そこで改めて読み直すと、三島という人間が急に輪郭を持って見えてくる。
右翼の文豪というより、時代より少し早く
「現代人の感覚」に到達してしまった人間。
1999年、自分は三島という名前を遠巻きに眺めながら、怖かったのだと、今になって思う。
右翼だから、昭和の亡霊だから、ではない。
三島が抱えていたものが、自分の中にも似た形で存在している気がしたからだ。
強い言葉に寄りかかりたい衝動。
自分をどう見せるかという計算。
崩れそうな自己を何かで支えようとする感覚。
それを直視するのが怖かった。
三島を「理解できない人間」として遠ざけておく方が、楽だった。
そういう読み方をしてみると、三島由紀夫という人物は、昭和の遺物というより、むしろ年々少しずつ現代に近づいてきているように見える。1999年という時代の空気を通して読むと、特にそう感じる。
あの時代に三島を読んでいた人たちが、どういう感触を持ったのか、少し気になっている。
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チップをありがとうございます。
そのまま宝にしておきます。^_^