見出し画像

1996年、俺は彼女と生きていた

1996年。アトランタ五輪の熱狂が、広島の街にもじりじりと届いていた夏。
街中の電器屋の店頭テレビでは、柔道やマラソンの中継が延々と流れ、商店街のスピーカーからは小室ファミリーの曲が途切れなく流れていた。
まだスマホなんて影も形もなく、ポケベルが鳴るたびに公衆電話を探して走り、プリクラが登場して間もない頃。
市内の喧騒から少し離れた市場での生活は、T京で過ごしていた張り詰めた日々とはまるで違う、自由と汗の匂いと、昭和の残り香が混ざり合った「青春の真ん中」そのものだった。

独り身だった俺は、地元の悪友や市場のスーパーで顔を合わせる同年代の連中とつるんでは、海へ繰り出し、夜になれば安酒を煽り、カーステから流れるのは擦り切れかけたカセットテープ。
まだMDすら普及しきっていない頃で、テープが絡まるたびに鉛筆で巻き戻した。
金なんてこれっぽっちもないのに、なぜか心だけは妙に満たされていた。
T京では決して味わえなかった、あの独特な
「地元の夏の濃さ」に、全身が包まれていたんだ。

足は、無理して手に入れた中古のZ32。
湾岸ミッドナイトがリアルに語られていた時代で、Zに乗るというだけで、少し背伸びした大人になれた気がした。
低いシートに体を沈め、夜の国道を滑り出すと、道路脇の自販機の光、コンビニの看板、深夜のトラックのテールランプが流れていく。
昼間の市場の重労働も、職場のギスギスした空気も、アクセルを踏み込むだけで背後の風に溶けていった。
自分の人生を、自分の手で運転している。
その確かな手応えだけが、V6エンジンの振動とともに胸の奥に響いていた。

朝の市場に響くフォークリフトの音、魚の匂い、そして容赦なく照りつける太陽。
まだクーラーの効きも弱く、扇風機が部屋の空気をかき混ぜる音が生活のBGMだった。
そんな日常のオアシスが、関連棟にある「喫茶T」だった。
昭和の香りが残る木のテーブル、壁に貼られた色褪せたメニュー、ブラウン管テレビから流れるワイドショー。
お母さんと息子、そして娘が切り盛りする家族経営の店。
そこで働く娘のS香ちゃんに、俺は自然と惹きつけられていった。

金髪に近い茶髪、透き通るような色白の肌。
細い眉、少しギャルっぽい雰囲気をまといながら、どこか素朴で、場内の埃っぽい空気の中で彼女だけがひときわ光り輝いて見えた。
場内の男たちが放っておくはずがない存在だったが、不思議と彼女は数回通っただけの俺に心を開いてくれた。
デートに誘えばあっさりとOK。最初の目的地は、まだ夢の場所だったKPランドだ。
コーヒーカップやゴーカートで子供みたいにはしゃぎ、場内のパスタを二人でつついた。
帰りのドライブ、車内を流れる夏の湿った風の中で「付き合ってほしい」と告げると、
これまたすんなりとOKが出た。
胸の奥が焼けるほど嬉しくて、今までのどっちつかずの遊びとは違う、本物の恋が始まったんだと痛いほどに実感した。

それから間もなく、市場近くの1DK、2階の部屋で同棲を始めた。
畳の匂いが残る部屋、押し入れの奥に前の住人が置いていった古い扇風機、窓の外から聞こえるセミの声。
狭い部屋のどこにいても彼女の気配がした。
朝、市場へ向かう前の数分間の何気ない会話さえ、宝石のように特別だった。
「もう誰とも浮気なんてしない、この子だけと生きていく」――そんな誓いが、自然と心に湧き上がっていた。

俺はZ32、彼女は青く塗られた商用車ベースのアベニール。
45ナンバーの一年車検、フロントガラスには白いファー。
車高を落としたローライダー仕様で、当時の若者文化の匂いをそのまま纏っていた。
助手席には芳香剤の甘い匂い、ダッシュボードには小さなぬいぐるみ。
俺たちは二台の愛車を交互に出しては夜の街を流した。
オレンジ色の街灯が続く国道、まだLEDではない、あの独特の温かい光。
並走していると、二人の未来がその道の先まで、どこまでも伸びているように思えた。

周りからは「チャラい二人」に見えていただろうが、そんな視線はどうでもよかった。
ただ隣に彼女がいる、それだけで世界は完結していた。
夜はビデオレンタルショップの白い蛍光灯の下でアクション映画やプロレスのVHSを選び、
ピザを頼む。
まだDVDもない、巻き戻しが面倒な時代。
ダル着でベッドに転がり、映画を観るのが日常の至福だった。
ゲームが苦手な彼女は、俺が手加減するとすぐに見抜いて不貞腐れる。
その拗ねた顔すら愛おしくて、笑いながら仲直りして、次はどこへ行こうか、Y口までドライブしようか、なんて未来の話を飽きもせず繰り返した。

昼時、店で冷やかされるのを嫌がった俺のために、彼女は愛車まで出前を運んでくれるようになった。
控えめで恥ずかしがり屋な彼女が、俺のために市場の喧騒を平気で通り抜けてくる。
車のドアを開け、一瞬だけ視線が交差して出前を受け取る。
その刹那、世界は二人だけのものになった。
服装は二人ともポロシャツに腰パン。
ゆるいジーンズやチノパンを履き、当時のストリートの匂いをまといながら並んで歩く時間は、
同じ世界の住人であることを確かめ合う儀式のようだった。
色白の彼女は、光の加減で時折外国人のように見え、そのたびに胸を強く掴まれた。

そして、彼女のアベニールのカーステからは、
いつもマッドカプセルマーケッツが大音量で流れていた。
まだCDチェンジャーが誇らしかった時代。
あの攻撃的で独特な重低音が、俺たちの生活のBGMだった。
夜のドライブ、音に合わせて小さく身体を揺らす彼女の横顔は、今も脳裏に焼き付いている。
「今まで出会った中で、一番綺麗だった」――そう断言できるほど、あの夏の彼女は俺の人生の中で誰よりも特別に輝いていた。
市場の疲れも、金のなさも、何もかもがどうでもよくなるほど、俺たちはただ、純粋に幸せだったんだ。

#1996年
#90年代
#平成初期
#広島
#市場で働く
#青春の記憶
#同棲生活
#恋愛エッセイ
#実話ベース
#Z32
#アベニール
#ローライダー
#深夜ドライブ
#90年代の車文化
#マッドカプセルマーケッツ
#90年代音楽
#カーステの記憶
#VHS時代
#喫茶店の思い出
#出前文化
#広島の夏
#1DK暮らし
#恋人との日常
#VHSとピザ
#あの夏
#最も綺麗だった人
#青春の湿度
#エッセイ
#ノンフィクション
#思い出
#人生の話

いいなと思ったら応援しよう!

nao46222 チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^