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1993年の夜、ジュラシック・パークと大学生三人の帰り道

N島さんとの出来事が胸の奥にまだざらついたまま残っていて、その余韻が完全に抜けきらないままS本さんと話していた。
すると、普段なら気にも留めないような
小さな反応が妙に引っかかる。
言葉の温度が少しずつ噛み合わなくなり、
会話の表面は穏やかなのに水面下で小さな波紋が広がっていくような、そんな微妙なすれ違いが
生まれてしまっていた。

別に喧嘩をしているわけでもない。
空気が壊れているわけでもない。
ただ、歯車が半分だけズレたような違和感だけが残る。

こんな中途半端な空気のまま解散するのも妙だし、だからといって距離を置くほどの問題でもない。
その宙ぶらりんな感じが、かえって居心地の悪さを増幅させていた。

そこで半ば思いつきのように
「映画でも観に行く?」
と口にした。

S本さんはほんの一瞬だけ考える間を置いてから
「いいですよ」
と答えた。

そのわずかな間が妙に現実的で、たぶんお互いに同じことを思っていたのだと思う。
とりあえず場所を変えよう、と。

そこでまだ下宿先にいたS田にも声をかけ、
結局いつもの三人で夜の街を歩くことになった。

大学の周りの夜は、昼とはまるで違う顔を見せる。
昼間は学生や車の往来でざわついている道路も、夜になるとヘッドライトの白い筋だけが静かに流れていく。

コンビニの蛍光灯がやけに明るく浮かび上がり、湿った空気の中でアスファルトが鈍く光っている。
遠くの信号機が赤から青へゆっくり切り替わり、その下を三人がだらだらと歩いていく。

途中、レンタルビデオ店の前を通ると、
ガラス越しにVHSの背表紙がずらりと並んでいるのが見えた。
ハリウッド映画、香港アクション、恋愛映画、
日本のドラマ。
どれも色の強いパッケージで、
棚全体が小さな映画館のように見える。

90年代の街には、まだ「娯楽の物質」がたくさん存在していた。
CDのケース、ゲームソフトの箱、ビデオテープのパッケージ。
それらが店の棚にぎっしりと並び、夜の街の光の中で静かに色を放っていた。

授業の愚痴や教授の話、誰が誰と付き合っているらしいとか、そんな大学生らしい
どうでもいい会話が途切れ途切れに続いていた。
夜の空気は少し湿っていて、街灯の光が歩道に薄く滲んでいる。
何気ない会話の断片が、その光の中に溶けていくようだった。

1993年という年は、世の中が静かに軋み始めていた時代だった。

バブル経済はすでに崩壊していたが、街の見た目はまだ完全には変わっていなかった。
派手な看板もネオンも残り、ショッピングセンターには人がいて、テレビは相変わらず明るい番組を流していた。

ただ、新聞やニュースの言葉だけが少しずつ重くなり始めていた。

「不良債権」
「景気後退」
「就職氷河期」

そういう言葉が、まだ実感のないまま
紙面に現れ始めていた頃だった。
バブルの熱が完全に冷え切る前の、
奇妙な中間地帯。
街の表面はまだ明るいのに、その下で何かがゆっくりと軋み始めているような時代だった。

けれど自分たちの生活は、
その社会の重さから半歩だけ浮いていた。
将来の不安は遠くの雲のようにぼんやり見えるだけで、目の前にあるのは夜の空気と友人との時間だけだった。

そんな浮遊感の中で、三人は映画館へ向かった。

自動ドアが開いた瞬間、外の湿った空気とは違う冷房の匂いが身体に触れた。
そこにポップコーンの甘い匂いとカーペットの匂いが混ざり、映画館特有の空気が広がる。

ロビーにはポスターが並び、カップルや学生たちがチケット売り場に並び、ジュースの氷の音や紙袋の擦れる音が軽く響いていた。
少し遠くでは、ゲームコーナーの電子音が小さく鳴っている。

その日観ることになったのは、
世界中で大ヒットしていた
『Jurassic Park』だった。

暗い通路を抜け、スクリーンの光が見える席に座ると、さっきまで続いていた会話は自然と止まった。
映画館という場所は不思議なもので、
人は席に座った瞬間に静かになる。

日常の会話を一度置き去りにして、
スクリーンの中の世界へ入る準備をする。

映画が始まる。

この映画を作ったスティーヴン・スピルバーグという監督は、人間がどこで恐怖を感じるのかを本能的に理解している作り手だった。

彼は若い頃から、姿が見える前の
「気配」で恐怖を作ることに長けていた。
海の底から近づくサメを描いた『ジョーズ』や、見えないトラックに追われる男を描いた
『激突!』でもそうだったが、
彼の映画では恐怖は突然現れるものではなく、
ゆっくりと近づいてくるものだった。

ジュラシック・パークでもそれは同じだった。

遺伝子工学で恐竜を復活させたテーマパークが
制御不能になるという物語の裏側には、
科学の傲慢さと自然の力の対比がある。
だが映画の核心はそこではなく、
人間の身体の奥に残っている原始的な恐怖を呼び起こす仕掛けにあった。

Tレックスが現れる前、車の中の水の入ったコップが小さく震える有名なシーンがある。
まだ恐竜の姿は見えない。
ただ地面の振動が水面に伝わるだけだ。

だが観客はその瞬間、巨大な存在が近づいていることを理解してしまう。

恐怖とは、姿ではなく予感で生まれる。

スピルバーグはそれを知っていた。
だから恐怖の直後に必ず安堵を置き、
また次の恐怖を忍ばせる。
その繰り返しで観客の呼吸を操るように映画を組み立てる。

スクリーンの中で恐竜が咆哮し、車が揺れ、
子どもたちが息を潜める場面では劇場全体が完全に静まり返っていた。
三人とも気づけば身体を少し前に傾けていた。

さっきまで続いていた会話も、
N島さんとのざらつきも、
すべてが一時的に頭の外へ押し出されていた。

映画が終わる。

エンドロールが流れ、場内の明かりがゆっくりと点く。
あれほど張り詰めていた空気が、一瞬で解ける。

観客は立ち上がり、ざわざわと出口へ向かう。
巨大な恐竜の世界はスクリーンの中に置き去りにされ、現実の足音だけが通路に響く。

ロビーに出ると、
三人は自然にまた馬鹿話に戻っていた。
映画の話も少しはしたが、それよりも

「S本さん、単位どうなった?」
「昔、S田はよ、あの授業絶対寝てたよ。」

とか、自分達らしいどうでもいい会話の方が次々に口から出てきた。

映画の余韻よりも、日常の温度の方があっさりと勝ってしまう。
それが自分達の夜だった。

外に出ると空気は少し冷えていて、湿った風が頬を撫でた。
そのまま三人で近くの味噌煮込みきしめんの店に入った。

木の引き戸を開けると、
赤味噌の濃い甘い匂いが一気に身体に落ちてくる。
店の奥では鍋がぐつぐつと音を立て、
湯気が白く立ち上っていた。

しばらくして運ばれてきた土鍋の中には、
濃い赤味噌の汁と平たいきしめんが沈んでいた。
表面に小さく油が光り、湯気がゆっくり立ち上る。

普段なら少し重たいと感じる味なのに、
その日に限っては妙に身体にしっくりきた。
小麦の香りと赤味噌の甘さが、冷えていた身体の奥にゆっくり落ちていく。

麺をすする音と、くだらない会話の声が店の中に混ざる。

映画の恐怖も、N島さんとのざらつきも、
S本さんとの小さなすれ違いも、
全部が湯気の中で少しずつ溶けていくようだった。

恐竜が暴れていた二時間の非日常と、
土鍋の中で静かに湯気を立てるきしめんの現実。

その落差が妙に心地よくて、
あの夜は三人の大学生活の中に小さく刻まれた。

振り返って思う。

あの『Jurassic Park』の二時間と、
味噌煮込みきしめんの赤味噌の甘さは、
ただの映画の思い出ではない。

バブルが終わり、社会がゆっくりと重くなり始めていた1993年という時代の中で、
まだ未来の重さを完全には知らなかった三人が過ごした、ほんの短い浮遊時間だったのだと思う。

恐竜の咆哮と、赤味噌の湯気。
その二つが同じ夜の中に存在していたことを、
今でも不思議なくらい鮮明に覚えている。


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nao46222 チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^