『宝島』が記録していた、輪郭を失う日本
1999年、自分は27歳だった。
『宝島』を毎号買っていた。
VOWも買っていた。
他の芸能雑誌とは明らかに違うサブカルチャーの匂いが好きで、広末涼子の隣に文化人やアングラな記事が並んでいる誌面を、不思議と「文化の融合」として受け取っていた。
違和感ではなく、面白さとして。
今思えば、その感覚自体が1999年だったのだと思う。
『宝島』を、単なる「エロ化したサブカル誌」として片付けてしまうと、あの雑誌が最後に映していたものを見失う。
あの年の『宝島』は、雑多だったのではない。
日本のサブカルチャーが地下から地上へ引きずり出され、商品化され、細分化され、自分自身の輪郭を失っていく。
その瞬間の濁流を、丸ごと誌面に封じ込めていた。
そういう雑誌だったのだと思う。
1970年代、『宝島』はまだ『WonderLand』だった。
植草甚一の空気をまとい、アメリカ西海岸文化やジャズや映画やドラッグカルチャーを、日本語で無理矢理輸入しようとしていた時代だ。
当時の誌面は今見ると驚くほど読みにくい。
文字は多く、レイアウトは雑然としていて、
どこかインクの染みまで思想臭い。
洗練とは程遠い。だが、その不格好さこそが70年代サブカルの本体だったのだと思う。
まだテレビも新聞も巨大で、"表の文化"が絶対的な支配力を持っていた時代だった。
NHKのニュースが正しく、新聞の一面が現実であり、茶の間のテレビが世界の全てだった。
その時代、地下には地下の熱があった。
フォークゲリラが新宿西口地下広場に集まり、
学生運動の残り火がくすぶり、ヒッピーカルチャーが海を渡って断片的に流れ込んでいた。
『宝島』は、その地下水脈を掘り当てるための雑誌だった。
売れるためではなく、"まだ名前の付いていない熱"を見つけ出すために存在していた。
植草甚一が書く文章は、まるで散歩の途中で拾ったものを並べたような雑然さで、それでいてどこかジャズのアドリブに似た固有のリズムがあった。
あの時代の『宝島』を読んでいた人間は、
雑誌を読んでいたのではなく、地下への入口を探していたのだと思う。
80年代に入ると状況が変わる。
YMO、ニューウェーブ、パンク、DCブランド、原宿、渋谷、クラブカルチャー。 つまり、"サブカルがファッション化する時代"が来る。
ここで『宝島』は決定的な変異を起こす。
かつてのカルト誌は、都市型ポップカルチャーの編集装置へ変貌するのだ。
糸井重里、みうらじゅん、いとうせいこう、戸川純、藤原ヒロシ、高木完、電気グルーヴ。
誌面には「街」が流れ込み始める。
深夜のクラブ、輸入レコード店、渋谷の雑踏、
原宿の空気、安いネオン、コンビニ前に座る若者たち。
80年代の『宝島』は、情報誌というより"東京そのものの断片"だった。
80年代の『宝島』が面白かったのは、まだ「サブカルである自覚」があったからだと思う。
メジャーに対するマイナー、表に対する裏、
商業に対するインディー。
その緊張感が誌面に張り詰めていた。
みうらじゅんの「いやげもの」的な視線、
いとうせいこうの言葉遊びの密度、電気グルーヴの悪意と笑いの混合。
あれらはどれも、"主流から少しだけ外れた場所に立つ"という態度を共有していた。
渋谷系と呼ばれる音楽が生まれ、ビームスやシップスが原宿に店を構え、若者たちが東京を「自分たちの舞台」として発見していく。
その熱狂を、『宝島』は誰よりも敏感に吸い上げていた。
しかし、この成功によってサブカルは致命的な変質を始める。
本来、サブカルとは主流への抵抗だった。
メジャーからこぼれ落ちた者たちが、自分たちの居場所として作り上げた地下空間だった。
だが80年代後半、日本ではサブカルそのものが流行になってしまった。
地下文化が地上に出た瞬間から、"地下である理由"を失い始めたのである。
反体制だったはずのものが、広告になり、ブランドになり、ライフスタイルになっていく。
パルコの広告がサブカルの言葉を使い始め、
レコード会社がインディーズを大量に囲い込み、「サブカル的であること」がそのまま商品価値になっていった。
その頃から『宝島』の誌面には、どこか説明できない薄さが漂い始める。
まだ面白い。
まだ刺激的だ。
だが、何かが静かに抜け落ち始めている。
昔の『宝島』を知っていた人間ほど、その違和感を敏感に感じ取っていたのではないかと思う。 自分が宝島を手に取ったのは80年代後半だったが、初期の号を古本屋で探して読んだことがある。
あの読みにくさと熱量の落差は、確かに感じた。
そして90年代。その矛盾が一気に噴き出す。
バンドブームが終わり、バブルが崩壊し、
日本全体が未来を見失い始める。
テレビはまだ明るかったが、街の空気は確実に変わっていた。
終わらない不況、就職氷河期、オウム事件、阪神淡路大震災。
"日本はこのまま上へ行く"という感覚だけが静かに死んでいく。
そんな時代の中で、『宝島』は生き残るためにさらに過激化していった。
1992年、一般誌初のヘアヌード掲載。
この出来事は単なるエロ解禁ではない。
むしろ、「売れるものは全部やる」という90年代出版界の絶望そのものだったように思える。
かつて思想や音楽やカルチャーを語っていた雑誌は、風俗、セックス、援助交際、ドラッグ、裏社会へ急旋回していく。
しかも重要なのは、『宝島』自身がそれを"堕落"だとは思っていなかったことだ。
むしろ彼らは確信犯だった。
なぜなら90年代後半、日本社会そのものが"裏側"を欲し始めていたからだ。
オウム事件以後、日本人は「表の世界」の綺麗事を急速に信用できなくなっていた。
テレビは嘘っぽく、政治は腐敗し、企業神話は崩壊し、学校は閉塞し、未来は輪郭を失っていく。その結果、人々は裏情報、都市伝説、風俗、危険ドラッグ、匿名文化へ流れていった。
『宝島』は、その欲望を誰よりも早く嗅ぎ取っていたのである。
だから1999年の『宝島』は異様なのだ。
誌面には広末涼子がいる。
優香がいる。
安西ひろこがいる。
だが、その隣には「男の悦楽体験」「裏風俗」「危険情報」「アングラ」「深夜欲望産業」が並んでいる。この混在感覚こそが1999年だった。 自分はそれを毎号買いながら、あの混在を"文化の融合"として面白がっていた。
今考えると少し可笑しいが、それが嘘偽りない27歳の感覚だった。
しかも実際に誌面を開くと、その違和感はもっと生々しい。
グラビアページはやけに光沢が強く、紙をめくるたびにインクとコート紙の匂いが立ち上がる。
広末涼子の透明感のある笑顔を見た直後、次のページでは突然、風俗特集の煽り文字や、裏ビデオ広告や、怪しい欲望産業の記事が飛び込んでくる。
その落差はどこか悪夢じみているのに、当時はそれを誰も止められなかった。
コンビニの雑誌棚には『宝島』が普通に並び、深夜の立ち読み客たちは、アイドル記事と裏情報記事を同じ速度でめくっていた。
今思えば、あの光景そのものが1999年の日本だったのだと思う。
当時の日本では、"清純"と"欲望"がまだ完全には分離していなかった。
アイドルは癒やしであると同時に消費対象であり、サブカルは思想であると同時に商品であり、アングラは反体制であると同時に娯楽だった。
境界線が静かに溶け始めていたのである。
しかも1999年は、インターネット前夜だった。2ちゃんねるが誕生し、ヤフオク!が拡大し、
個人が情報を売買し始める。
つまり雑誌が独占していた"裏情報"が、ネットへ流出し始める時代でもあった。
『宝島』は、その変化を本能的に察知していたのだと思う。だから誌面は異常に落ち着きがない。
アイドルをやりながら風俗特集をやり、サブカルをやりながら男性誌をやり、情報誌をやりながらアングラをやる。
それは編集方針がブレていたのではない。
むしろ、"何が売れるのか誰にも分からなくなっていた"のである。
そして、この感覚は現代のSNSに異様なほど似ている。
アイドルの隣に犯罪ニュースがあり、陰謀論の隣に広告があり、知性の隣に欲望があり、猫動画の隣に戦争映像が流れる。
本来ジャンルごとに隔離されていた情報が、全部フラットに並ぶ世界。
その混沌を、『宝島』はまだ紙媒体だった時代に先取りしてしまっていた。
ネット以前、雑誌は世界そのものだった。
人は雑誌を通して東京を知り、裏社会を知り、
カルチャーを知り、女の子を知り、音楽を知った。
地方の若者にとって、雑誌は"世界への入口"だったのである。
だが1999年頃、その入口としての雑誌は急速に機能を失い始めていた。
世界の情報量が、紙のページ数を超え始めてしまったのだ。
だから1999年の『宝島』を読むと、そこには単なる雑誌以上のものが映っている。
サブカルがメジャーに飲み込まれ、抵抗が商品化され、地下文化が広告へ変わり、最後には"何でもあり"だけが残っていく。
その崩壊過程を、27歳の自分は面白がりながら毎号買い続けていた。
そしてその崩壊過程を、『宝島』は最後まで紙の上に記録していた。
あの雑誌は、日本文化そのものが輪郭を失っていく瞬間を、誰よりも近い場所で見続けていたのである。
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