見出し画像

4/15 寄り道脇道読書感

おはようございます。
昨日の雨で、庭のミモザがお辞儀してしまった、そのままでは折れてしまいそうだったので、重たい花部分を全部伐りました。えいやっ!
「はぁ、助かった~」とヒョロヒョロ枝のミモザは腰を伸ばしました。おかげで部屋は黄色でパッと明るくなっております。

大島弓子『ミモザ館でつかまえて』という作品、あれ、どんな話だったろうか? 後で読み返してみよう。
吉祥寺に住んでいた大島弓子、繊細な作風が、猫と暮らすようになってから、以前よりちょっぴりアバウトに、ちょっぴりユーモア多めになったように感じるのは、氣のせいだった?

オースターの『ムーン・パレス』は昨日運転免許更新の講習を待つ間に読了し、帰宅後、本屋で新たに購入の『謎解きカラマーゾフの兄弟』江川卓、『月と六ペンス』モーム、『「偶然」はどのようにあなたをつくるのか』ブライアン・クラースの3冊を撫でまわし、つまみ食いをして、今後のお楽しみにワクワク。
結局1万円分のクオカードは、書店での2回の買い物でなくなりました。良き使い方だったと思います、はい。

夜、寝床に入ってからの読書は小川洋子『ブラフマンの埋葬』。もう最初から涙腺が緩み、胸がキュンキュンの世界。
動物と子どもは最強です。
主人公は、森からやってきた傷ついた子どもの動物を保護し、「ブラフマン」と名付けます。タイトルに埋葬とあるので、すでにこの子が死ぬことは分かっている。登場した瞬間から死がそこにある。「だから」なのか、「必然」なのか、ブラフマンの行動、しぐさすべてが輝き、愛おしくなってしまうという禁じ手を、小川洋子は使っているんですよ、ったく…これをやっちゃぁおしまいよ、ってヤツです。

河合隼雄は亡くなる前、対談相手の小川に言う。
「次は『ブラフマンの埋葬』について語りましょう」
実現しなかった約束。
河合は小川と、この作品の「なにに」ついて語りたかったのか? このミステリーに、今のワタシが密かに挑戦しているというわけです。

「ブラフマン」と対になる言葉が「アートマン」。
あーね、「梵我一如」ってか?
傷ついた謎の小動物がブラフマンなら、主人公はアートマンですな。
ってことは、この両者がやがて融合していく?
つまりブラフマンの死は、アートマンがブラフマンと合体できたということ?
これって、『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラにも共通しているよね?
とか、短い小説なのに、どうも思考が脇道に逸れまくるためになかなか先に進みませんが、これはこれで読書の醍醐味でもありましょう。

鈴木大拙の『禅とはなにか』『無心ということ』の「自利利他」にも繋がる?
そういや、うちの近所に「農家cafeりた」があります。オーナーはひょっとすると禅的な意味合いを店名に持たせたかったのかも。

また、有名な禅の考案「なぜ雪は白いか」というのがあります。
さぁ、これにどう答えます?

どんな答えがあってもいいんですが、ワタシは「白いから白い」という答えが好きです。
まんまじゃん?
そう、「まんま」を受け入れる。
『ゲド戦記』シリーズの後半になると、すでに魔法の力を失ったゲドが「受け入れる力」について語っています。ゲドも禅的領域に入っていたんですね。ってことは作者ル⁼グウィンが東洋的思想を取り入れていたことになるのか~。
あ、またまた脇道に入り込みました。

『ムーン・パレス』の主人公マルコが公園でゴミ箱から食べ物を漁っていたとき、身長180cmで体重が50キロにまで痩せていくんですね。反対に、後で判明するマルコの父バーバーは体重160キロで、その巨体を人々に嘲笑される存在です。
父と息子のこの反転具合、単なる外見の反転だけではないと思います。
他にも、実はマルコの祖父だったエフィング老人は盲目なんですが、彼はマルコに「観る」こと、そしてそれを言語化することを執拗に強要します。それによって、マルコは視覚を超えた「観る」ことの意味を感じ取っていくんですね。頭でなく感覚で學び取っていく、ここ大事。

小川洋子がオースターに惹かれるのは、ここだと思う。
頭でっかちにならない。体験を通じて肚に落とし込んでいく。ドストエフスキー『カラ兄』のイワンや『地下室の手記』の224(ワタシが語り手に名付けた名)のように観念にとらわれ過ぎないこと。
肉体を持って3次元世界に生きている以上、この辺のバランス感覚は持っていないと、境界の向こう側に行ってしまいますから。まぁ、最終的に行っちゃうのもありかなとも思いますが、『ムーン・パレス』の原爆拒否して狂人になった男とか、ですね。たぶんゴッホも、そう。賢治はギリギリ踏みとどまったですね。

さて、今日も雨ですが、氣持ちはソマチッドとともにご機嫌元氣に参りましょう。

いいなと思ったら応援しよう!