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行政のたらい回し円環地獄。

円環地獄という「構造物」

行政のたらい回しは、単なる不親切でも、担当者の性格の悪さでもないです。むしろ「誰かが悪い」ではなく「悪いことが起きるように組まれている」構造物です。ここが一番イヤな点です。
個人の善意や努力が、構造に吸い込まれていく。人間の温度が、ルールの冷却水で薄められていく。熱が冷え、声が小さくなり、最後に残るのは「次の窓口はこちらです」という矢印だけです。

矢印が多い。矢印の先にも矢印がある。矢印が迷路の装飾になっている。
そして迷路の出口には、入口がある。円環です。

たらい回しは「移動」ではなく「消去」

たらい回しを移動だと思うと、まだ希望が残ります。AからBへ、BからCへ、どこかに正解があるはずだ、と。
でも実態は「移動」より「消去」に近いです。

手続きが進むのではなく、問題の輪郭が薄くなる。
話が解決するのではなく、話をしたという事実だけが摩耗する。
相談したのに、相談の重みが減っていく。言葉の価値が、スタンプを押されて圧縮されて、最終的に「記録」という薄い紙になって出てくる。

そしてその紙は、次の窓口でこう言われます。
「ここでは扱っていません」

「担当外」という魔法の盾

行政は時々、鋼鉄のように固い言葉を出してきます。「担当外」です。
担当外という言葉は便利です。なぜなら、説明のコストがゼロだからです。
担当外と言った瞬間、目の前の問題は、その場から消えます。担当外は、責任の外側へ問題を投げ捨てる呪文です。

担当外は「知らない」と違います。
知らないは弱点ですが、担当外は正義の顔をしています。
担当外は、制度の純潔を守る言葉です。制度が汚れないように、現実を制度の外に捨てる。現実の方が悪いことにして、制度は清廉であり続ける。

正しさの鎧が現実を刺す瞬間

行政の言葉は、たいてい正しいです。規程上、要件上、権限上。正しい。
しかしその正しさが、現実を刺す瞬間があります。

制度は線で引かれます。対象者、対象外、所管、管轄。
現実は線で引けません。線をまたいで生きています。人は複雑で、生活は連続で、困りごとは複合です。
行政は線を守る。現実は線を踏む。
踏んだ足が切られる。切られた側が「困っている」と言う。
すると制度は言う。「線は線です」

線を守ることが、誰かの生活を守ることと一致しない。そこに地獄が生まれます。
この地獄は、怒鳴っても崩れないです。泣いても溶けないです。正しさでコーティングされているからです。

窓口という名の「減圧室」

窓口は助ける場所のはずです。でも、たらい回しが常態化すると、窓口は「減圧室」になります。
人間の困りごとには圧力があります。切迫、焦り、恐怖、恥、怒り。
ところが窓口に入ると、その圧力は「要件」によって減圧されます。

「そのケースだとこの書類が必要です」
「それは申請ではなく届出です」
「これは制度が違います」
「前例がありません」

困りごとの圧力が、形式の圧力に置き換わります。
助けが来るのではなく、形式の説明が来る。
説明自体は正確です。正確だけど、命綱ではない。
減圧された困りごとは、本人の中で酸素不足になります。声が出なくなる。言葉が弱る。話が短くなる。結果として、ますます「要件に合わない」感じになる。地獄の自己増殖です。

申請書類の儀式化

行政の地獄には儀式があります。書類です。
書類は必要です。公平性のため、記録のため、不正防止のため。これは理解できます。
でも書類が儀式化すると、書類が目的になります。

本来は「困りごとを解消するために書類が要る」のに、
いつの間にか「書類を整えることが救済である」かのような顔をしてくる。

書類は、整っている人ほど強いです。
時間がある人、体力がある人、ネットが使える人、文章が書ける人、自己管理ができる人。
逆に、困っている人ほど整えにくい。だからこそ困っているのに。
ここが残酷です。必要な人ほど届かない形で制度が立っている。

制度が悪いというより、制度の形が「整えられる者のため」に寄っていく。
整えられない者は、門前で足止めされる。門番は悪人ではない。門番はルールを守っているだけです。
だから腹が立つ。怒りの置き場がない。

縦割りは「合理性の墓」

縦割りは、組織運営としては合理的です。専門性も出る。責任分担も明確になる。
しかし、生活は縦割りではないです。
生活は横に広がっていて、絡み合っていて、同時進行で、相互作用します。

医療、福祉、労働、教育、税、住宅、家庭。
どれか一つだけの困りごとなど、ほとんど存在しない。
なのに窓口は分かれている。分かれているだけならまだいい。
分かれているうえに、連結していない。

縦割りが怖いのは「境界の外側を無にする力」です。
境界の内側は責任を持つ。外側は知らない。
すると現実の複合問題は、境界線で切断されて、どの部局にも完全には属さなくなります。
属さないものは、最終的に「誰も持たない」になります。

合理性が、墓を掘る。
合理的に掘った墓に、合理的に困りごとが埋められていく。

相談という行為が「データ」に変換される恐怖

相談すると、話が記録されます。記録は大事です。言った言わないを防ぐ。引き継ぎもできる。
でも、相談がデータに変換される瞬間、恐怖が生まれます。

データは切り取られます。要点、分類、該当制度、対応履歴。
言葉の温度は落ちます。息遣いは載らない。沈黙は記録されない。
「苦しい」という単語が残っても、苦しさは残らない。

そして次の窓口で、そのデータが読まれる。
読まれた瞬間に、当事者は「そのデータの人」になります。
データの人は、データの範囲でしか存在できない。
データ外の部分を話そうとすると、「では最初から説明してください」になる。
最初から説明すると、「要点をお願いします」になる。
要点を言うと、温度が消える。温度が消えると、切迫が伝わらない。
切迫が伝わらないと、優先度が落ちる。優先度が落ちると、時間が延びる。
時間が延びると、生活が壊れる。円環です。

「前例」と「公平」の二枚刃

前例は必要です。公平のためです。
でも前例は「新しい地獄」を生みます。

前例があるものは救われる。
前例がないものは救われない。
前例がない時点で、制度が追いついていない可能性があるのに、追いついていない側が不利益を受ける。
つまり、社会が変化するほど、先に困った者が損をする。

公平は美しい言葉です。
ただし、公平が「同じ型に押し込める」ことだけを指し始めたとき、残酷になります。
同じ型に入らない者を、型の外へ捨てるからです。

本当は公平は「状況に応じて必要な手当が届く」ことも含むはずです。
しかし運用が硬くなると、公平は「例外を作らない」という意味に縮む。
縮んだ公平は、生活を助けません。生活を切り捨てます。

役所が悪役になれない地獄

たらい回し地獄は、敵が見えない地獄です。
窓口の人は多くの場合、丁寧です。礼儀正しい。説明もできる。ときには共感もある。
だからこそ地獄です。

悪役がいない。
いないのに苦しい。
苦しいのに責められない。
責められないから、自分を責め始める。
「説明が下手なのか」
「準備が足りないのか」
「自分がダメだから制度に届かないのか」
この内面化が、一番危険です。

行政のたらい回しは、外側から殴り返せる痛みではなく、内側へ染みる痛みです。
痛みが内側に回ると、人は静かになります。
静かになった人は、制度の上では「問題がない人」になります。
問題がない人が増えると、改善は起きない。円環の完成です。

「窓口の最適化」が地獄を深める皮肉

最近は効率化が進みます。番号札、予約制、オンライン申請、チャットボット。
便利です。必要です。
でも、たらい回し地獄と結びつくと、効率化は地獄を深めます。

予約制は、困っている瞬間に扉が開かない。
オンラインは、困っている人ほど環境が整っていない。
チャットボットは、複合問題を理解しない。
FAQは、型に合う人だけを救う。

効率化とは、型の最適化です。
型の外側にいる人が増えるほど、効率化は「救われない人を早く弾く装置」になります。
しかも弾く側は合理的です。時間を節約しているからです。
合理的に弾かれる地獄。これが現代的なたらい回しです。

たらい回しの「心理学」

たらい回しは制度の問題ですが、同時に心理を破壊します。
破壊の順番が決まっているのが恐ろしい。

最初は希望があります。どこかが解決してくれるだろう。
次に混乱が来ます。言われることがバラバラだからです。
次に疲労が来ます。移動、待ち時間、説明の繰り返し。
次に自己疑念が来ます。自分の言い方が悪いのかと思い始める。
次に諦めが来ます。もういい、となる。
諦めの後に来るのは、静かな怒りか、静かな無気力です。
静かな無気力は、社会の側から見えない。見えないから放置される。円環です。

たらい回しは、困りごとを解消しないだけでなく、困りごとを「訴える力」まで奪います。
訴える力を奪われると、制度の改善が起きない。
改善が起きないから、同じ地獄が温存される。

「責任の所在」と「責任の空洞」

たらい回し地獄の中心には、責任の問題があります。
ただしこれは「責任者を決めろ」という単純な話ではないです。
責任者を決めても、権限がなければ動けない。
権限があっても、予算がなければ動けない。
予算があっても、要綱がなければ動けない。
要綱があっても、解釈が硬ければ動けない。
解釈が柔らかいと、監査やクレームで止められる。
止められた結果、現場は守りに入る。守りに入ると担当外が増える。

責任がどこかにあるのに、現場では空洞になる。
この空洞が、たらい回しの回転軸です。
回転軸がある限り、たらいは回る。水がこぼれても回る。人が倒れても回る。

法律は人を守るが、人を傷つけることもある

法律や制度は、本来は人を守るためのものです。
しかし「守る」という行為は、同時に「線を引く」ことでもあります。
線を引けば、線の外が生まれる。
線の外が生まれれば、線の外は守られない。
守られない側が出ると、そこが地獄になる。

問題は、線を引いた事実そのものではなく、線の外側を「存在しない扱い」にする運用です。
存在しない扱いにされると、相談者は「制度の外側の人」になります。
制度の外側の人は、制度の言語を話せない。話せないから届かない。届かないから、さらに外側へ押し出される。円環です。

「救済」の言葉が持つ重さ

救済は簡単に口にしてはいけない言葉です。
なぜなら救済には必ず「届く仕組み」が必要だからです。
届く仕組みがない救済は、看板です。看板は眩しいほど残酷です。
眩しいほど、影が濃くなる。

行政はしばしば「相談してください」と言います。
相談は大切です。
ただ、相談という入口だけを増やして、出口を増やさないと、相談窓口は「溜池」になります。
溜池は静かです。静かな水面の下で、困りごとが沈殿します。
沈殿した困りごとは発酵します。発酵した困りごとは、ある日爆発します。
爆発すると、ニュースになります。
ニュースになると、また「再発防止策」という看板が立つ。
看板が増える。出口は増えない。円環です。

行政のたらい回しが生む「社会の体温低下」

たらい回しが続く社会は、社会全体の体温が下がります。
困っている人が声を出さなくなるからです。声を出しても無駄だと思うからです。
無駄だと思う人が増えると、制度は「静かな社会」を成果として誤認します。
静かな社会は健全ではないです。沈黙は健全の証明ではない。疲弊の証拠です。

体温が下がると、人は孤立します。
孤立すると、困りごとは複雑化します。
複雑化した困りごとは、ますます窓口の型に合わなくなる。円環です。

地獄の出口は「一発逆転」ではなく「接続」

たらい回し円環地獄に、一発で効く魔法はないです。
必要なのは接続です。縦割りを壊せと言いたいのではないです。壊せないからです。
接続の設計を増やす。境界を跨ぐ仕事を正式な仕事として認める。
「担当外」の外側に、橋を架ける。

橋とは何か。
情報の共有、権限の委譲、連携のルール、例外運用の透明化、そして何より「複合問題は複合のまま受け止める」窓口の存在です。
受け止める窓口があって、そこから各部署へ振り分ける。
振り分けるときに「説明の労力」を相談者側に押し付けない。
この一点だけでも、地獄の回転数は落ちます。

回転数が落ちれば、息ができる。
息ができれば、人は言葉を取り戻す。
言葉が戻れば、制度の改善は現実の形を見られる。
現実の形が見えれば、線の引き直しが可能になる。

「最後に残るもの」が矢印だけの社会にしないために

行政のたらい回しは、矢印の形をしています。
矢印は便利です。わかりやすい。流れを示す。
ただ、矢印しか残らない社会は怖いです。
人間が消えて、矢印だけが残るからです。

矢印の先に、必ず人間がいる状態を維持する。
制度の正しさと、生活の現実を切り離さない。
担当外の外側に、橋を作る。
相談という言葉を、入口だけの看板にしない。

円環地獄は、回転している限り、誰かを削ります。
削られた人は静かになります。
静けさは、地獄の完成形です。

この地獄を語ることには意味があります。
語ることで、矢印だけの世界に、人間の輪郭が戻るからです。
輪郭が戻れば、線の引き方が変わる余地が生まれる。
余地が生まれれば、円環は円環ではなくなる可能性が出てきます。
たらい回しは、永遠である必要がない。少なくとも、永遠であっていい理由は一つもないです。

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