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結局、何が正解で、何が間違いなのか、その基準は何処にあるんですか❔

結局、何が正解で、何が間違いなのか、その基準はどこにあるのかという、終わらない問いについて

結局のところ、何が正解で、何が間違いなのか。
この問いは、物書きをやっていると、何度も、何度も、戻ってきます。

しかも、この問いは、答えを出した瞬間に、必ず裏切ってくる。

スポーツや勝負の世界なら、まだ話は単純です。
勝ったか、負けたか。
記録が出たか、出なかったか。
数字が、結果として残る。

でも、物書きは違う。

いつバズるか分からない。
何年後に読まれるかも分からない。
そもそも、評価されるかどうかすら、誰にも分からない。

これは勝負じゃない。
競技でもない。
トーナメント表も、ゴールテープも、存在しない。

だからこそ、「正解」と「間違い」を測る物差しが、最初から存在しないんです。


正解と不正解は、人によってズレて当たり前という前提

物書きの世界で、一番ややこしいのは、
正解と不正解が、人によって全然違うという点です。

この人にとっては、刺さる。
でも、あの人にとっては、不快。

この人にとっては、真実。
でも、あの人にとっては、暴論。

このズレは、異常ではありません。
むしろ、正常です。

文章は、読む人の人生、価値観、経験、立場に、必ず触れてしまう。
だから、反応が割れるのは、避けられない。

それなのに、
「万人受けする正解」を探そうとした瞬間、
文章は、死に始める。


多様な感想を、書き手が否定してはいけない理由

これは、ボクがかなり大事にしているところです。

自分の記事に対して
全然違う感想を持たれる
真逆の解釈をされる

これは、普通です。
むしろ、それが文章の健全さです。

書き手が
「それは違う」
「そう読まれるのはおかしい」

と言い出した瞬間、
文章は、読者のものではなくなる。

文章は、出した時点で、
もう書き手の手を離れています。

だから、
多様な感想を否定してはいけない。
これは、絶対です。


それでも、書く側は「これは俺の主観だよな」と悩む

ただし。

これは理屈として分かっていても、
書く側としては、別の苦しみがあります。

「これ、俺の主観だよな」
「客観じゃないよな」

この感覚。

ボクも、めちゃくちゃあります。

でも、ここで一つ、はっきり言えることがあります。

客観だけでは、記事は書けません。

むしろ、
客観だけで書こうとした瞬間、
何も書けなくなる。

データ
事実
構造

それらは大事です。
でも、それを「どう感じたか」「どう捉えたか」は、
どうしても主観になる。

主観を排除した文章は、
説明文にはなっても、
記事にはならない。


主観で書くからこそ、人間性が問われる

だからこそ、物書きに必要なのは、
「正解探し」ではなく、
「人間性の蓄積」だと、ボクは思っています。

どう生きてきたか
何を見てきたか
何に怒り、何に黙ってきたか

それが、そのまま文章に出る。

だから、
人間性を高めることを放棄したら、
良い記事は、絶対に書けない。

これは、かなり厳しい話ですが、
避けて通れません。


万人受けする正解と、絶対に間違わない不正解は存在しない

正直に言います。

万人受けする正解なんて、存在しません。
絶対に間違わない不正解も、存在しません。

あるのは、
「今の自分が、こう書いた」という事実だけです。

それが
当たるか
外れるか

それは、後から決まる。

しかも、
当たったと思ったら、数年後に評価が変わることもある。

この不確定さが、物書きの世界です。


ボクは、かなり難しいやり方を選んでいる自覚がある

ボク自身の話をすると。

正直、楽なやり方ではないと、自分でも思っています。

社会批評
真実
構造
怒り
矛盾

トゲがある
角が立つ
嫌われやすい

そういう題材ばかり、選んでいる。

たまに、意味不明なポエムエッセイが混ざるのも、
自分でも分かっています。

それでも、
GPTを相方にして
こういう書き方を続けている。

これは、相当、難易度が高いです。


スキが押されないことは、不正解ではない

noteをやっていると、
ビューはそこそこあるのに
スキが押されない

という現象が、普通に起きます。

これを
「評価されていない」
「間違っている」

そう捉える必要はありません。

事情は、人それぞれです。

スキを押すのが怖い人
足跡を残したくない人
共感はするけど、表明できない人

今の時代、
「反応する」という行為自体が、
リスクになっている。

だから、
スキが少ない=不正解
ではない。


正解と間違いを、可視化すること自体が難しい時代

もっと言えば。

正解・間違いを
スキ
コメント(ボクは閉鎖していますが)
数字

で表現すること自体が、
難しい世の中になってきました。

共感しても、黙る。
読んでも、反応しない。
支持しても、距離を取る。

それが、今の空気です。


書いていること自体が、危うい時代に入っているという実感

さらに言うと。

ボクは、最近、
「こうやって記事を書いていること自体が、危ない時代になってきたな」
と、正直、思います。

言葉は切り取られる
文脈は無視される
意図は歪められる

それでも、書く。

これは、
勇敢というより、
覚悟です。


それでも書く理由は、正解を出すためではない

じゃあ、なぜ書くのか。

正解を出すためじゃない。
間違いを避けるためでもない。

考え続けるためです。

自分の中にある違和感を
言葉にして
外に置いて
また見直すため。


正解と間違いの基準は、「後悔しないかどうか」だけ

最後に。

正解と間違いの基準が、もしあるとしたら、
ボクは、これしかないと思っています。

その文章を出した後、自分が自分を嫌いにならないか。

それだけです。

売れたか
評価されたか
バズったか

それは、後から付いてくるかもしれないし、
一生来ないかもしれない。

でも、
自分で書いた文章を
自分で裏切らない。

それが、今のボクにとっての、唯一の基準です。


正解は、固定されない。だから、書き続けられる

正解が決まっていないから
間違いも確定しない。

だから、
書き続けられる。

この不安定さこそが、
物書きという行為の、正体なんだと思います。


書き続ける人と、書かなくなる人が分かれる地点は、才能でも努力でもない

物書きを続けていると、必ず分岐点に立たされます。
これは、誰にでも来る。例外はない。

「ここから先も、書くのか」
「それとも、もう書かないのか」

この分岐は、才能で決まりません。
努力でもありません。
評価でも、売上でも、スキの数でもない。

もっと、生々しいところにあります。

書いた後の自分と、どう折り合いをつけられるか。

これだけです。


書き続ける人は、毎回「負けた気分」を引きずっている

これは、あまり語られませんが、かなり重要な点です。

書き続けている人ほど、
どこかで、ずっと負けた気分を抱えています。

思ったほど読まれなかった
反応が薄かった
誤解された
黙殺された

これらを、全部抱えたまま、次を書く。

勝った感覚で書き続けている人は、ほぼいません。
勝ったと思った瞬間に、筆が止まる人の方が多い。

書き続ける人は、
負けたまま、立ち上がる癖がついている。

これは、才能ではなく、耐性です。


書かなくなる人は、文章ではなく「自尊心」を守ろうとする

一方で、書かなくなる人もいます。
これも、悪いことではありません。

ただ、多くの場合、
文章をやめる理由は、こうです。

「これ以上、自分が傷つきたくない」

評価されない
理解されない
間違っていると言われる

それらから、距離を取る。

これは、とても自然な防御です。

ただ、その瞬間から、
文章は「未完」のまま止まる。


書き続ける人は、自分の文章を信じていない

意外かもしれませんが、
書き続けている人ほど、
自分の文章を信じていません。

「これでいいのか」
「伝わるのか」
「間違っているんじゃないか」

ずっと疑っている。

でも、信じていないからこそ、
次を書く。

完全に信じ切った瞬間、
修正も、更新も、起きなくなる。


読者は、沈黙という選択を、以前より強く選ぶようになった

次に、読者側の話に入ります。

今の時代、
沈黙は、無関心ではありません。

むしろ、
選択された沈黙です。

読んだ
感じた
考えた

でも、反応しない。

それは、怠慢ではなく、
自己防衛である場合が、かなり増えています。


「反応する」という行為そのものが、重くなりすぎた

スキを押す
コメントを書く(ボクは閉鎖していますが)
共有する

これらは、昔よりも、はるかに重い行為になりました。

思想が透ける
立場がバレる
誤解される
絡まれる

だから、黙る。

これは、冷たい態度ではなく、
賢い生存戦略です。


書き手と読み手の関係は、もはや対等ではない

ここで、かなり厄介な問題が出てきます。

書き手は、名前を出して書く。
考えを晒す。
立場を明らかにする。

一方で、読み手は、
匿名で
沈黙したまま
安全圏にいられる。

この非対称性は、年々、拡大しています。

書き手は、殴られる可能性がある。
読み手は、殴られない。

この構造を理解しないと、
書くこと自体が、ただの消耗になります。


それでも書く人は、「理解される」ことを諦めている

書き続けている人は、
どこかで、諦めています。

全員には理解されない
誤解される
嫌われる

それを、前提にしている。

でも、
誰か一人に、深く届けばいい
そう思っている。

この一点が、
書き続ける理由になる。


書くことは、主張ではなく「位置表明」になっている

今の時代、文章は、
説得の道具ではありません。

主張でもない。
正解提示でもない。

自分は、ここに立っています
という、位置表明です。

だから、
同意されなくてもいい。
反論されてもいい。

ただ、
どこに立っているかは、はっきりさせる。


書くことは、世界を変えるためではない

よく言われます。

「文章で世界を変えたい」
「社会を良くしたい」

それは、尊い理想です。

でも、現実は違う。

文章で、世界は変わりません。
社会も、簡単には動かない。

それでも書くのは、
自分が、どこまで耐えられる人間かを確かめるためです。


書くという行為は、自己確認に近い

ボクにとって、書くことは、
表現というより、確認です。

まだ考えているか
まだ怒っているか
まだ違和感を感じているか

それを確かめる。

だから、
評価がなくても
反応がなくても

書く意味は、消えない。


「危ない時代に書いている」という感覚は、正しい

ここは、はっきり言います。

危ないです。
確実に。

言葉は、
文脈を剥がされ
断片化され
武器にされる。

それでも書くのは、
無防備だからではない。

覚悟して、やっているからです。


書き手は、いつも一歩、危険側に立っている

書くという行為は、
安全圏から一歩、踏み出すことです。

黙っていれば、何も起きない。
書けば、何かが起きる。

それを選んでいる。

だから、
書き手は、常に、少し危険側にいる。


正解も間違いも、最後まで確定しない

ここまで来て、ようやく言えます。

正解は、最後まで確定しません。
間違いも、最後まで確定しません。

評価は変わる
時代は変わる
読む人も変わる

だから、
今の正解は、未来の不正解になり
今の不正解は、未来の評価になる。


それでも書く人は、「揺らぎ」を受け入れている

書き続ける人は、
揺らぎを受け入れています。

確信がない
保証がない
安全もない

それでも、
書く。

これが、物書きという生き物です。


地獄みたいな場所に、言葉を置き続けるということ

書くというのは、
地獄みたいな場所に
言葉を一つずつ、置いていく行為です。

誰かに踏まれるかもしれない
誰にも見られないかもしれない
意味がなかったと思う日も来る

それでも、置く。

なぜなら、
置かない限り、
何も始まらないからです。


それでも、ボクは、今日も書く

結局、これです。

正解か
間違いか

そんなものは、後で決まればいい。

今日のボクが
考えて
悩んで
書いた

それだけで、
今日は、書いた意味がある。

だから、
地獄みたいでも
危なくても
報われなくても

ボクは、今日も、書きます。

書くことで失うものについて

書くことで、得るものはよく語られます。
理解、評価、共感、反応、居場所。

でも、書くことで失うものについては、あまり語られません。
なぜなら、それは、あまりに個人的で、あまりに取り返しがつかないからです。

だから、最後に、それを書いて終わりにします。


書くことで、無邪気さを失う

まず、確実に失うものがあります。

無邪気さです。

書く前には、
世の中を、もう少し単純に見ていられた。
善悪が分かれていると思えた。
正しさが、どこかにある気がしていた。

でも、書き続けると、
物事の裏側が見えてしまう。
構造が見えてしまう。
理由が分かってしまう。

そうなると、
簡単に怒れなくなる。
簡単に信じられなくなる。
簡単に誰かの味方になれなくなる。

これは、成長ではありますが、
同時に、喪失でもあります。


書くことで、沈黙できなくなる

書いていると、
気付いてしまう。

気付いた以上、
見なかったふりが出来なくなる。

違和感
矛盾
理不尽

それらが、視界に入ってしまう。

沈黙は、楽です。
安全です。
消耗しません。

でも、書く人間は、
沈黙を選ぶたびに、
自分に嘘をついている感覚を覚えるようになる。

結果、
黙っていられなくなる。

これは、かなり重たい喪失です。


書くことで、人間関係が削られる

これは、綺麗事では済みません。

書くことで、
距離が生まれる人がいます。

分かり合えなくなる
話題を避けられる
触れられなくなる

これは、実際に起きる。

特に、
社会批評
真実
構造
不都合な話

これらを書いていると、
空気が変わる。

書く前にはあった
曖昧な関係
適当な雑談
無害な距離

それらが、壊れることがある。


書くことで、「普通の安心」を失う

書かない人は、
波風を立てずに生きられます。

でも、書く人は、
意図せず、波を立てる。

発言として残る
記録として残る
切り取られる可能性が残る

これは、常に付きまとう。

結果、
完全な安心は、手に入らない。

何かあった時に
「あの人は、ああいうことを書いていた」
と言われる可能性を、常に抱える。

これは、かなりの代償です。


書くことで、自分の逃げ場を失う

書いていると、
自分の考えが、外に出る。

一度、言葉にしたものは、
完全には、引っ込められない。

だから、
自分の中に、逃げ込めなくなる。

「分からないふり」
「考えていないふり」
「気付いていないふり」

それが、出来なくなる。

これは、精神的に、かなりきつい。


書くことで、孤独が具体的になる

孤独は、誰にでもあります。

でも、書かない人の孤独は、
ぼんやりしています。

書く人の孤独は、
具体的です。

自分が、どこに立っているか
誰と違うのか
何がズレているのか

全部、見えてしまう。

この孤独は、
誤魔化しが効きません。


書くことで、「戻れない場所」が増える

一度、書いたテーマには、
戻れません。

何も知らなかった自分
何も考えていなかった自分

そこには、戻れない。

これは、
不可逆です。

書くという行為は、
一方通行です。


それでも、書く人は、これらを引き受けている

ここまで書いて、
はっきり言えます。

書くというのは、
何かを得るための行為ではありません。

何かを失うことを、引き受ける行為です。

無邪気さ
沈黙
安心
逃げ場
関係
戻れる場所

それらを、少しずつ、差し出す。


それでも手放さない理由は、たった一つ

それでも、書く人がやめない理由は、
一つしかありません。

書かない自分を、もう信じられないからです。

書かなかったら、
見なかったことになる。
考えなかったことになる。
感じなかったことになる。

それが、出来なくなった。

だから、書く。


書くことは、正解を探す行為ではない

最後に、これだけは、はっきり言います。

書くことは、
正解を探す行為ではありません。
間違いを避ける行為でもありません。

引き返さないと決める行為です。


それでも、ボクは、書く

失うものが多いと分かっていても
危ないと分かっていても
報われないと分かっていても

それでも、書く。

それは、勇気でも、使命でもありません。

ただ、
書かずに生きる自分の方が、もっと怖い
それだけです。

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