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『観測外―警視庁A種事案:シュレディンガーの叛逆―』 ◆最終章~前編~ 名前のつかない場所へ

最終章 ~前編~ 名前のつかない場所へ


 人と人の縁とは不思議なものだ。
 その出会いが運命を変える分岐点にすらなる。
 佐伯の「因果」が導いた橘と灰瀬の出会い。
 それは一ノ瀬参事官との出会いより強力で、灰瀬の両親の事件を解決に向かわせる「因果」だった。
 
 佐伯が送った、たった一行の短いメールが灰瀬の運命を大きく変えたのだ。
 
―――――――――――――――
 
 ドアが閉まる音が、やけに小さく響いた。
 外の冷気を断ち切ったはずの部屋は、どこか現実味を失っている。
 灰瀬は靴を脱ぎ、そのまま奥へ進んだ。久し振りに外界の雰囲気に呑まれたせいか、その時の心は確かに緩やかになっていた。だが一歩足を踏み入れた瞬間、また現実に引き戻される。

 橘は遅れて入り、壁に手をついた。

 さっきまでの光景が、頭の奥に残っている。「駒」「揃う形」「選ばされた配置」。それらが複雑に絡み合ってはいるが、一つ一つ丁寧に解いていけばその先にあるのは。

「……なあ」

 橘が口を開く。

「俺は……一体何なんだ? 」

 灰瀬は振り向かない。ケトルの蒸気が部屋に立ち昇りだす。
 いつものように、カップに粉を入れる。一定の動作。
 だが、今日に限ってはその間が長かった。

「……まだ分からない」

 それが灰瀬にとっての正直な答えだった。整理された頭の中のウェビングは確かに一人の人物を示している。だが、それは橘ではなかった。むしろ――。

(――選んでない)

 灰瀬の頭の中で思考が浮かぶ。

(いや……違う)

 自らが選んでいる感覚もある。だがそれに確信が持てない。
 灰瀬が戻り、カップを置く。

「選ばされてるんじゃなく、選んだように“見せられていた”可能性もある」
「……それは初めから仕組まれていたと言うことか? 」

 橘の声がうわずった。
 灰瀬の中で線がゆっくりと繋がる。

(すべて同じ構造なのは確かだ。ならやることはたった一つ)

 それをより確実なものにするしかない。
 そしてその中心にいるのは――。
 灰瀬の記憶の奥に浮かぶ人物。

 白衣の男。無機質な視線をもつ――

(あいつだ)

 灰瀬が勢いよく立ち上がる。

「……行くぞ」
「どこに? 」
「答えを知ってるやつのところだ」

―――――――――――――――
 
 灰瀬と橘が向かった先は鑑識課だった。
 相変わらずの無機質な空間。白い蛍光灯。消毒薬の匂い。機械音。

 橘は入口で足を止めた。

「……ここか」

 灰瀬は黙ったまま答えなかった。その視線の先には城崎が座っていた。
 白衣のまま、ガラス越しにこちらを見ていた。

「来たか」

 変わらない冷ややかな声。
 だが、あの時と同じには聞こえない。
 歩み寄ろうとする灰瀬を橘が制止した。

「やめろ」

 反射的に出る声。

「そいつは――」

 危険だと、本能が理解している。だが灰瀬は止まらなかった。

「確かめるだけだ」

 城崎は嬉しそうな表情で灰瀬をみつめる。

「君は必ず気付くだろうと思っていた」

 その言葉には、確信があった。

「そして私を訪ねてくるだろう。と」

 灰瀬が立ち止まる。

「君は“選ばれた側”だからな」

 そう城崎が断言した瞬間、空気が変わった。それに圧倒されるように橘は息を呑む。
 灰瀬は何も返さない。
 ただ、無言で手を伸ばし、城崎の身体に触れる。

 その瞬間、世界が崩壊する。音は消え、光が裂ける。意識は白い混沌へと解き放たれる。
 堕ちていく……深い白の世界へと。
 
 そしてその先で初めに視たのはあの少女だった。
『Case-A17』の識別タグを与えられた少女の姿だった。苦しみにもがいていた華奢きゃしゃな背中がやがて静かになりそして動かなくなる。

 同時に――

 濁った橘の瞳を視る。激しい爆発の中佇む姿。そして白い閃光。だがその奥で“同じ視線”が重なる。
 津波のように次々と覆いかぶさり、また別の記憶が侵食し始める。

 それは灰瀬にとっての急所であり暗闇だった。
 そこは静まり返った暗い部屋だ。一人の男の姿が視える。震える手にはナイフが……。背後に気配はするが誰もいない。
だが、確かにそこに誰かいる。
 男の精神が、わずかに歪んだその瞬間、背中に穿つ。真紅の血液が溢れ出し倒れた……愛する「両親」の――最後だった。
 
(……! )

 視える……そこは自分の家だった場所。“力”が止まらない。深く……更に深くダイブしていく。一ノ瀬参事官。資料。下される判断。

《処理する――》

 そして、あの日の「A種疑い」のメモと“焼け焦げた時計”から視えた燃え上がる家を観察する視線。焦りも興奮もない。ただ確認している男の姿と脳内に響いたあの言葉、あの抑揚のない声……。
 
《―― 完了●●

 その背後にも視線を感じる。すべてが繋がっていく――。
 焼け焦げた時計、少女、橘、男、一ノ瀬、その中心に必ず存在する姿は……。

《どうだ? 》

 声が直接、脳に……意識に落ちてくる。

《見えたか? 》

 灰瀬は理解する。これは命令ではなく、誘導して任意の場所に配置しようとする意図。
 さらに深く、最深部へと引きずられる。
自分との境界が消え始める。

(……まだ奥がある)

 その瞬間。
 城崎の“意識”が灰瀬と綺麗に重なった。

《興味深い》

 感情のない仄暗い声が脳内に響く。

《私の能力はテレパシー·シンクロニシティ。対象者の精神に同調し、肉体を乗っとる能力だ。なのに、君は干渉を受けながら崩れない。やはり君は類をみない特異点だ》

 灰瀬の意識が揺れる。

(……こいつ)

 灰瀬は完全に理解した。橘を使った理由も爆発も何もかも全て――。

「俺の観測のためか!! 」

 初めて言葉になる。城崎はそれを否定しなかった。「観測」のため犠牲になった多くの人たちは一体どんな気持ちだっただろうか――。灰瀬は激しい無力感にさいなまれる……。

《お前を見るためだ》

 氷のように冷たく、そして静かに言う。

《精神干渉では届かない領域がある。だが、お前は違う。触れれば、構造を理解する》

 ふっと微笑みながら「だから必要だった」、「天秤の目民間組織リブラには」と。

 灰瀬の視界が歪む。
 そこに怒りはなかった。ただ、理解があった。自分の心は既に死んでいたのかもしれない。あの両親の死の日から。そう考えた瞬間、声が聴こえた。

「――行き過ぎだ、灰瀬! 」

 それはどこからか聴こえた現実の声。佐伯の声だった。一瞬、混沌だったはずの世界がひび割れる。
 わずかな差だったが、「因果」がその声に歪んだ。

 それだけで十分だった。灰瀬の意識が、現実へと一気に引き戻される。

 白い蛍光灯と消毒薬の匂い。足に伝わる床の冷たさ。
 感覚が戻った瞬間、灰瀬の膝が崩れ落ちる。
 橘はその身体を強く支えた。

「おい!」

 灰瀬は荒い息を整えながら、顔を上げる。
 城崎は動じることなくそんな灰瀬を見下ろしていた。
 変わらない感情の色が消えた目で。

「構造を把握したか? 」

 灰瀬は答える。

「ああ……。全部、同じだった」

 城崎は満足そうに静かに頷く。
 灰瀬はゆっくり立ち上がる。しかし、その目にあるのは怒りでも、復讐でもなかった。

「俺は……選んでないわけじゃなかった」

 唇を強く結ぶ。

「だが、……選ばされていた。お前の手によって――!! 」

 橘もこの言葉で自分が置かれた立場を初めて理解した。灰瀬は城崎をにらむ。

 そして、一歩、後退あとずさると距離を取った。それが灰瀬の答えだった。……国家から、そして明かされた天秤の目リブラという名の存在から逃げる為に――。
 それは灰瀬が初めて選んだ、真実●●の意志での選択。

「……なるほど」

 初めて、わずかに興味の色が混じる。

「それが君の答えなのか? 残念だ。だが……そう簡単にいくかな? 」

 灰瀬は何も言わずただ背を向ける。橘と共に静かにその場を離れる。
白い光の中で、「観測」の外へと向かいながら――。

次回最終章後編~水曜日21時(数分誤差有)更新:


『名前のつかない場所で、灰瀬はようやく、自分の物語を始めた』

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