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エッセイの書きまわし方~卵焼きの教え~

エッセイってね、日常の出来事から私の思うこととか感じたこととか考えたこと、そんなものを連ねるものだと思うのだけど、ここにひとつの疑問が生じないだろうか?

それは、私にとっての「似非エッセイ(そんなのあるの?)」を書くということは、日常そのもの。その日常そのものから思うことなどなどを書くことがエッセイなのだろうが…。

その似非エッセイを書く私は、その似非エッセイを書くことについて特に何も感じず、むしろ感じたことを書きたくない、でも、事実は書きたい…そんな思いで書いた事実の記録を残したい、伝えたいという思いがある。事実を記録のように連ねることは、エッセイにはならないのだろうか。

日常の出来事に明らかな感情があり、いかなる感情もあっていいのだが、その感情を表現したくないという感情を表すこともしたくない…(?)

青空が広がっている
  → いい気持ちだ

それがエッセイだとして

青空が広がっている
  → いい気持ちだけどいい気持ちとは書きたくない。
  → しかしながら、青空が広がっていることは伝えたい
  → 青空が広がっていることを伝えたいと思うことを書く?
  → それとも「青空が広がっている」で終わる?

表現したくない気持ちを、表現しようとすると、どうしても表現することを避けられないのか?

ふぅ。疲れる(笑)

私自身としては「青空が広がっている」と書いておけば、その一言を鍵にいろいろな感情が生まれる。だからそれ一文でエッセイになる。ただ、外から見れば「青空が広がっている」という観察記録を読むことになる。私が、青空が広がっているということについて、書きたくない…という思いは伝わらない。ただ、書いていないだけで、私があえて書いていないということさえ伝わらない。

はて?

「私の大切な気持ち」は伝えたくない。でも私の心を動かした出来事は伝えたい。さらに私が私の大切な気持ちを伝えたくないという思いも伝えたくない…。何度かいても何を言おうとしているのかわからない。

この文は私がエッセイを書くということについて思うことを書いているエッセイとなるのだが。

文字というのは、いや、文字が手をつないで意味を持たせるということは、意味がないということを表すことはできない。無が無と書いたとたんに「無があることになる」。よくある禅問答…か。

でもね、日常の出来事で私が受け取ることって、俗っぽいことから哲学的な何か、あるいはギャグ、金もうけ…ライフハック…いろいろあり、それを書きたくないけど、その書きたくない気持ちを伝えようとすれば、私の希望は音を立てて崩壊する。

ガラガラガラガラガラガラガラガラ
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴォゥ

ガッシャン!

こういう謎の思考ループに振り回され、私の矛盾した思いが、そのループの遠心力で、勢いよくぶっ飛んで空に届くほど巨大な壁に激突し、ミクロレベルの粉になって散らばる…。

人は、どこからか、私の雲散霧消しかかったミクロレベルの粉をみて…私の矛盾した気持ちを受け取るのだろうか。

ますますわからなくなったよ♪

・・・

さっき、
卵焼きを作ろうと思って、
卵をかき混ぜていたら、
ボケーッとやっているもんだから、
卵が飛び散ったの。

よくわからんが
そんなことなのだろう。
(何が?)

ちなみに卵焼きは
こげた♪

こうばしぃよ。

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