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久しぶりの涙~たまねぎのリレー~

最後に涙を流したのは
いつだろう。

いつものように冗談めかして「たまねぎを切ったとき」などということもできるが、あいにく今はそんな気分ではない。涙にもいろいろあるが、悲しみの涙ではなく、絶望の涙でもない。かといって感動でも痛みでも、目薬でもない。もちろん、顔を殴られたわけでもない。あるいは、涙を装っているわけでもない。

先日、「たまねぎを切ったとき」涙は一滴も出なかったが、しみじみ感じたことがある。といってもやはり涙は一滴も出なかった。

その玉ねぎは現役を引退してもう相当な時間がたち、法制度でいえば後期◯◯◯に属する両親が、丹精込めて作った特別な玉ねぎだ。無骨な形だが、調理をすれば明らかにいつもの玉ねぎとは違った。あめ色に炒めてみたが、いい香りがして甘みもしっかりしている。調味料は最低限でよい、健康的なものでもあった。

その日、その玉ねぎで料理をし、皆でご飯を食べ、家族が味に満足したのかは定かではないが、私にはその甘味が両親からのエールに感じた。玉ねぎの無骨な形は父らしさ、みずみずしさは母らしさだろうか。ただ調理して食べるだけの私の「らしさ」はどこにあるのだろう?。あいもかわらず答えのない問いにたどり着くのだが、この日の夜は何かが違ったのだろう。その時は気がつかなかったが。


・・・

満腹になって、息子とお風呂に入った。あいもかわらず「マックのハッピーセットのおもちゃ」を湯船に投げ込む息子らしさを発揮していた。このおもちゃの洗礼はいったいいつまで続くのだろうか。

毎日30台あまりのトミカを湯船につからせていた保育園児だったころの息子を思い出した。お風呂から上がれば、毎日その30台余りのトミカを一台ずつ拭き上げる。最初は衛生を考えてのことだったが、そのうちそれは日々の習慣になった。しかし同時に、その習慣を超えて私の中に、おもちゃへの敬意を示す時間を育てた。

息子には『(何でも)やりたいだけ、存分にやればいい。』と言っている。結果よりも「やりきった!」という気持ちは、人を想像以上に強くするからだ。それは私自身へのエールでもあった。

・・・

その日の夜、少しよく眠れた気がした。私の親はいつまでも私の親だ。その優しさに包まれて(笑)というのは大げさで、タオルケットを一枚上にかけて、自動的に床に落としてしまうほどのものだ。それくらいがちょうどいい。

・・・

朝起きると何かがいつもと違った。
目元が腫れぼったいのだ。

涙を流すような夢でも見たのだろうか。
とて、あまり深くは考えなかった。

パソコンの前に座ると、ブラウザを開き、YouTubeを見始める。やはり「涙の夢?」と「目の腫れ」が気になっていたのだろう。自動的に『泣ける動画』と検索していた。おっさんとしては少々恥ずかしい検索ワードで、またまたまた社会からディスられるのだろう。自由に切ってあめ色に炒めてくれ、おっさんの味を堪能できる。もちろん味や命の保証はない(笑)。

なぜ泣ける動画をみたくなったのか。目元ダムに満水以上に涙が貯まっていたのかもしれない。ダムが開けば一気に放水される。それほど涙していないが、心奥底で、涙で何かを浄化したかった?。涙がゆーっくり1,2粒程度の涙が頬を伝った。確かに泣ける動画だった。何か違う気がしたが。

涙を放水した次の瞬間、現実の厳しさに圧倒されたダムは、その扉を開く前の数倍固く閉めた…そんな気がした。

・・・

YouTubeの動画は、
いつもどおりの内容となった。

結局何の涙なのかはわからない。

「それでいい…」
ダムはそう言っていた気がする。

・・・

前の日の夕食に使った玉ねぎを思い出した。なんのつながりがあるのか、よくわからないが、「玉ねぎの皮を一枚ずつ向いていく作業」をイメージした。

ダムは固く強固に閉じている。

玉ねぎの皮を一枚
また一枚、また一枚
また一枚、また一枚

やがて茶色と橙色の間の色…
その薄いパリパリパリパリの皮が
白いみずみずしいものに変化していく。

なぜか、さらにむきつづける。

玉ねぎの白い実?皮?を一枚
また一枚、また一枚
また一枚、また一枚
また一枚、また一枚

だんだん玉ねぎの核に近づいていく。

何枚めくっても終わらない。
いったいこの玉ねぎの核は
どこにあるのだろうか?

父が耕した土で育った玉ねぎ
母がつくった玉ねぎいっぱいのハンバーグ
私がつくったあめ色の玉ねぎ
妻と息子が、それを食べ…

それぞれの玉ねぎがリレーされる。

その核は一向に見えないが、
複雑な涙を織り交ぜながら
人はその核を探して
玉ねぎをリレーする。

・・・

今日はじゃがいもを
使おうと思う(笑)

じゃがいもの皮は…

もうしらん!

玉ねぎを食べたら思い出してね♪

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