怒りの健康観察記録――大卒だから何だっていうんですか!
『大卒だから何だっていうんですか!』
私は怒鳴った。しかしその時の正直な思いだった。
私は、障害者施設で支援員に就いたことがある。利用者さんとも同僚や上司先輩ともうまくやっていた。うまくやっていたというよりも、ふつうに仕事をする毎日が自然だった。楽しいかといえばそれほどでもなく、厳しいというほど厳しくもない。すべてがちょうどよかった。
『もしかしたらここで働き続けるのかな…』というぼんやりとした未来も思い描いていたのかもしれない。
そんな人生もいいかな。
ある3月のこと、西陽が眩しく感じた終業間近、課長に呼び出された。私は『あぁ。人事だな。』とすぐにわかった。
トコトコと少し駆け足気味に、軽快にリズムよく会議室へ向かった。また所属班が変わるのだろう。時々あることだったので、大ごとには考えていなかった。
・・・
課長は「4月から医務室の看護師さんたちの助手としてやってもらいたい」と私に告げた。私は医療のことはほとんど経験もなければ知識も技術もない。
私 :『医務室ですか?看護師さんのところですよね?』
課長:「そうだ。支援員も医務室の業務を経験してほしい。」
私 :『・・・。でも今まで支援員はいませんでしたよね?』
課長:「今まではいなかったんだが・・・。」
このあと10分ほど課長と話をした。課長は医務室の雰囲気に頭を抱えていた。複数の看護師さんたちの連携がうまくいっていなかったようだ。私も日ごろから何となくギクシャクした空気があることには気づいてはいた。
4月。医務室配属。人事異動は私の了承を必要としない。本意ではなかったが、ひとつの経験になると信じることにした。
・・・
医務室での仕事は、基本的に看護師さんの指示に従って、薬のシートをはさみで切ったり、物品の補充や健康観察記録の管理などだった。利用者支援から離れた悔しさはあったが、利用者さんの健康を守るという大義名分がギリギリのモチベーションとなった。
課長が言っていた、ある種の裏ミッション。看護師さんたちの連携をできるだけスムーズに行う環境を整える。
そんな環境を作る自信はまるでなかった。しかし何にしろ知らねばならぬ。私は今の事実をそのまま見ることにした。そのために、ふつうに仕事に集中することにした。いや、仕事に集中するくらいしかできなかった。
日々、まったく取っ掛かりのないミッションに戸惑ってばかりだった。黙々と仕事をしているうちに、ギクシャクして複雑な空気、決して目を合わせない看護師さんたちの意思疎通の不自然さを感じるようになった。
しばらくして、コツコツと頑張った仕事が評価されたのか、私はすべての看護師さんから一定の信頼を得ていた。これで何か取っ掛かりができたかもしれない。
しかし、事態は違う方向にねじれてしまった。すべての情報のやり取りの間に【私】が挟まってしまったのだ。これはきつかった。伝書鳩?いや複雑な交差点の交通整理係のような本来の仕事が中断してしまうほど忙しくなった。誰から誰に伝えるメモを付箋に書いて貼る。伝え終われば剥がす。しかしその内容は私も把握しなければならない。
人は忙しくなると追い込まれる。医務室の中は私も含めてややこしくなってきた。複雑な空気に巻き込まれてしまった。
すると仕事に影響し、どうしても抜け漏れが多くなる。抜け漏れがないように必死で確認する。しかし、右へ左へ情報だけが飛び交う。思考が追い付かず仕事が雑になり、ミスを繰り返してしまう。交通整理も限界か、片側交互通行の誘導に失敗して渋滞がひどくなってしまう。
ある日、また薬のセット忘れという大きなミスをしてしまった。もちろんすぐに対応して事なきをえた。確認を二重三重にしているので、ミスがあっても相互にフォローし合える…はずなのだが。
いつものように、健康観察記録の整理をしていると、ある看護師さんに唐突に言われた。
「あなた大卒なんだから、
もっとできるでしょ!」(笑いながら)
悪意がないのは分かっていたので
『はい。気をつけます。』と。
しかし、その大卒云々は日々、
さらには1日のうちに何度も続いた。
「あなた大卒なんだから・・・」
「あなた大卒なんだから・・・」
「あなた大卒なんだから・・・」
・・・
最初は何も感じなかった言葉が、じわじわじわじわ私を蝕んだ。このままでは自分がどうにかなってしまう!
手のひらの下にあった
健康観察記録の書式が
じわじわと握りつぶされる。
私の心拍は、
不自然に早く、猛烈に強く
急激に変化する。
次の瞬間!
『大卒だから何だっていうんですか!』
もともと大きな声がでる私。普段は意識して控えている。この時はその控えは無力だった。声が大爆発した。
だまった相手をまっすぐみて
『だ!か!ら!
大卒だから何だっていうんですか!』
凍り付いた相手をもう一度強くにらみ
『看護師だから何だっていうんですか!』
相手は黙って医務室を出て行った。
握りつぶした健康観察記録は
汗と怒りで濡れた。
もう使えない。
・・・
ミッションフェイルド(汗)
私は、大失敗してしまった。これはダメだ。やってしまった。職業人生で初めてのケンカ?だった。今ではハラスメントで許されないかもしれない。まったく大人げない出来事となった。
その日に、課長に退職を申し出た。
・・・
退職日、有休休暇を取っていた私は、挨拶をすべく課長に会いに行った。会議室で課長に翻意を促された。私は、どの面を下げて職場に戻っていいかわからなかった。
課長はこういった。
「あれから、看護師さんたちは少し反省して、もう少し本音で話そう…って少しだが雰囲気がよくなってきたんだぞ。今までにはないレベルで。」
しかし、医務室の雰囲気がどうあれ、退職はもう決めたことだった。課長の話で、私の怒りに満ちた正直な発言は、確かに意味があったことを知った。あの発言を後悔していたが、結局はよかった。少なくとも医務室にいい空気を吹き込んだのだ。わずかでも救われた。
そして、なにより
私は正直に怒りを表すことができた。
これはミッションがどうあれ、自分の思いを、率直に言葉にできた。これまでの職業人生で、なかなかできなかった私なりの正当な抗議。この経験はのちに冷静に抗議ができる自分に成長するきっかけになった。
正直になることは、
ときに強烈な感情を必要とする。
しかし、正直になることで
周りの環境はよくなるし
人も成長できる。
何でも怒ればいいというものではないが、怒るというのも大切な感情で、時には極端にならない程度に、正直にだしてよいのだ。
人事労務の仕事をしている今
ハラスメントを考える立場で
怒りをどう処理するか…
この経験はいつも根底にある。
正直になってよかった。
