昭和か?!ーよくぞここまで頑張ったー
「昭和か?!」
昭和生まれの私としては、複雑な思いがある。落胆や怒りではなく、時代でくくる浅さや、皆がもっとも嫌うはずの年齢による差別的(差別は言い過ぎ)な考え方…が気になるのだ。そもそも昭和は64年まである。昭和の初期に生まれた人の育った環境や価値観と、ほとんど平成といっていい昭和の最後に生まれた人の”それ”…「昭和」の言葉に一括できるほど単純ではない。さらに気になるのは、昭和の幅を知りつつ「昭和」を笑い飛ばす姿…私は理解できない。(※理解できる人を批判するつもりはない)
ハラスメントという言葉が当然に使われるこの時代にも関わらず、”最近の若者”とか”じじぃ”などなど、若者にも高齢者にも(もちろん中年にも)、自分と違う世代に、平気で刀を振り回す(ように見える)。少し残念な気持ちになる。
誰が誰についてどう思おうと自由だ(勝手だ)。
とはいえ
誰が誰についてどう言ってもいい自由は【ない】。
私自身にも言えるのだが、自分と違う環境に育った人たちについて【世代間ギャップ】というもっともらしい言葉で片づけようとしてしまう。その【世代間ギャップ】という言葉の包装紙が、自分の中にある他の世代に対する侮蔑の本音を、包み込んでしまうのだ(目立たなくしてしまう)。
しかし難しいのは、ある程度この包装紙を使わなければ、人と人が混ざり合う社会で暮らしにくくなる。ガラス張りになったら、社会は大混乱。コミュニケーションの美学など跡形もなく消え去り、殴り合いも多数発生。殴り合いが生きるスキルになるという、国を揺るがす事態になりそうだ。
もうひとつややこしい面がある。それは包装紙の逆向きの効果だ。包装紙は前述のように本音を隠すための役割をになうのだが、時として包装紙そのものが本音となってしまうことがある。自分自身が「包装紙」のように美しい…という”すっとんきょう”な思い込みが生まれる。本音が黒で、包装紙が白とすれば、本音も白になってしまう(なっている)。
すべての人が包装紙になったら、社会はどうなるのか。なぜだろう、私にはうまく想像できない。水清ければ魚棲まず…ということか、偽の清さに気が付かいない清い社会?もう自分が何言っているのかわからない(自分の浅さが無念…)。
・・・
「昭和(笑)、昭和(笑)って言うな!」
はてさて、これは本音から出ているのか、昭和の人間にあるあるの包装紙の叫びなのか。どちらが本物なのか?魂の叫びか形式的な叫びか。あきらめた昭和の人々の自虐的な笑いか。
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よくわからないが、誰に何をどう言われようと、この激変の時代を潜り抜けて尚更の変化の中に身を置いていて生き抜いている自分を認めてあげたい。
『よくぞ、ここまでがんばった!』
社会にも誰にも認められなくても、包装紙に包まれた自負?自信?として持っていればいいのかな…と思う。性別やら生まれた世代やらで、どうのこうの言われたとしても、私の中身には届かない。
私、私の父親や母親を『時代遅れ』とバッサリ斬ってきた。これは因果応報。今「昭和か?!」と揶揄されたとて、しっかりと受け止める必要があろう。
はてさて、しっかり受け止めることこそ
【包装紙】でくるむことなのでは?
そんな矛盾と闘う日々は続く。
自分のブラックVS.ホワイト
コーヒーはブラック派。
生き方もブラック?
ブラック人間?
たまにはミルクと砂糖を
入れましょうかね。
胃にも、脳にもやさしいかもね。
(知らんけど)
ふー。おいし♪
