引っ掻きアート(かゆみは爆発だ!)
なんでもアートになる時代?
私だったら自分の敏感肌?皮膚描記症なる症状を逆手にとって、前腕を爪で引っ掻くことで、そのアートを体現する。(自分を爪で傷つけるようなものではなく、単なる遊びなので、安心してください)
まず、爪を立てて、前腕部分をごく軽く引っ掻く。数分経つと、じわ〜っと引っ掻いたところが赤いみみず腫れになる。この引っ掻くときに、爪で文字を書いたり、絵を描いたりすれば、簡単なイラストや漫画が描ける。
とはいえ、このかゆみ(症状)は、文に伝えきれないつらさもある。ワイシャツや靴下のあと…、ボールペンや鉛筆を握っただけでもかゆくなる…。きっかけは少しでも、かゆみの根源が不明になってしまうほど、あちこちがかゆくなる。今も靴下のあたりがかゆい。かゆみがひどいと眠れないのだ(笑)
?
いや、笑えない。
病気によっては、私のかゆみとは、比較にならないほど強く耐え難いものがある。私がかゆいと愚痴ったところで、所詮愚痴れるレベル?なのだ。
そんな私だからこそ、このかゆみを逆手にとって日々作品作りに余念がない。
かゆみで苦悩し
かゆみを芸術に
かゆみを忘れる
まぁ、芸術(アート)といっても、落書きレベル。先日は、入浴時に息子が面白がって、いたずら書きした。「う○こ」と。
引っ掻かれてから数分後…息子の書いた3文字がじわーっと、でもはっきりと読み取れる3文字として浮かび上がる。これが鉛筆やマジックで書いた落書きに比べると、まったく次元の違うものになる。そのじわーっという浮きあがる様子、みみずばれのゆらぎの乗った極細の膨らみ…。その何とも言えない赤い色(りんご色だろうか)。
そして、この3文字のアートの最もアートらしいところ…
それは、3文字をじっくり味わう(えっ?)暇もなく、スーッと消えていく。あのとても上品とは言えない3文字とて、きれいに跡形もなく消えていくのだ。この【消えていく様子】がアートなのだ。
しかし、同時にこの消えゆく儚いアートは非常に迷惑かつ不快なのだ。いうまでもなく、かゆみのラッシュとなる。あれこれ説明しているとかゆみが発動しそうなので、非常に、非常に迷惑だと繰り返すにとどめる。
・・・
無。アートというのは無から何かを創造することをいうのかもしれないが…、まずその無そのものがカンバスというアートだ。つづいて、無のアートに、何かを生み出そうとする過程もアートだ。さらに、生み出した結果見える文字や絵もアートだ。さらにさらに、その文字なり絵なりを味わうのもアートだ。さらにさらにさらに、数分であれ何百年であれ、時々刻々変化し消えゆく過程もまたアートだ。最終的に、無というカンバスが物理的にも誰の心の中からも真に消える。アートの終焉だ。
残さない美学。違う。
残らないから美学なのだ。自分の意図とは無関係なことが大事だと感じている。特に何でもそのままに残るネット上のあれこれも面白味の副作用なのだろう。
私は、恥ずかしげもなく、
この文や引っ掻き跡を
アートと呼ぶ。
このとてつもなく散らかった仕事部屋も、その雑然さを誰に指摘されたとしても「アートだ!」。
生活の、仕事の、遊びの、人生の納期がじわじわ近づいてくることは、非常に怖い。怖いを怖いと心の中でわめきながらも、その悲しみ、わめきもアートなのだ(自分がそれと認めるか否かも含めて…)
私は、生まれたことがアート(奇跡)とは思っておらず、アートの過程にポコッと存在することになったととらえている。あとは、まるっと宇宙の中の米粒以下の存在としてアートの中を生き、アートの中に戻っていく。戻った後も脈々とアートはつづく。
・・・
ここにコアラのマーチがある。
これもまたアートであって、
私が食べて消えてしまうこともまた
アートなのだ。
コアラがそう感じているかは
まったくわからないのだが、
わからないという感情もまた…
食べ物・飲み物・遊びは
とやかく考えず
思いのままにやればいい。
コアラのマーチ
サクッサクッサクッ!
このサクッは
音楽だーーーーー!
ふつうに、うまい。
私より、ずっとずっと大変な症状に
苦しみ悩む大勢の方に
平癒を心からお祈りいたします。
