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「かさなる指」

実家のキッチンは、いつの間にか私の知らない調味料や、新しい調理器具で埋め尽くされている。母の城だった場所が、今は「母という個人の住処」に変わっていた。

「これ、おいしいわよ。食べてみる?」

母が小皿を差し出す。丁寧に作り込まれた副菜は、私が子供の頃に食べていた、あの懐かしい味とは少し違う。洗練されていて、でもどこか母らしい、芯の通った味。

「……うん、おいしい」

私は黙々と口に運ぶ。おいしい、という言葉でしか表現できないのがもどかしい。本当は、母の背中がどんどん遠くへ行ってしまうような、あの感覚を、どうにかして引き止めたかった。

「あんた、またそんなに仕事して」

「しょうがないじゃん」

母が私の髪に、ちらりと視線をやる。昔なら、そのまま無言で撫でてくれたはずのその手は、今はカウンターの上で軽く組まれているだけだ。その距離が、今の私にはどうしようもなく寂しい。

「……ねえ」

「何?」

「なんでもない」

言いたいことは喉まで出ている。尊敬してるなんて、そんな綺麗な言葉じゃない。

もっと、泥臭いこと。

まだ私のことを、一番の優先順位にしてほしいなんて、大人として恥ずかしいわがまま。

母は私の目を見て、ふっと優しく目を細めた。その表情は、私を慈しむと同時に、もう私の手の中には収まらないという、静かな決別にも見えた。

「疲れてるなら、座ってればいいわよ。今日はもう、何もしなくていい」

母が立ち上がり、シンクへ向かう。その後ろ姿が、どうしようもなく頼もしくて、どうしようもなく遠い。

私は思わず、その背中に手を伸ばしかけて、空中で止めた。

代わりに、テーブルの上の母が使ったフォークを、私の指先でそっとなぞる。残された熱が、かすかに指に伝わる。

「お母さん」

「なあに?」

「……これ、味付け、好きだよ」

母は振り返らずに、「そう、よかった」と笑った。

少し黙ってワインを飲んでから、私は立ち上がる。

「片付けくらいはさせて」

「いいわよ。もう八時過ぎよ。歯磨きして帰りなさい」

「大丈夫。ちゃんとやるよ」

私が洗って、母が拭く。

子どもの頃とは逆になったのに、不思議と手はよく動いた。

歯を磨きながら、他愛もない話をする。

磨き終われば、私は帰る。

八時十三分の急行は、今日も待ってはくれない。

玄関を出る前、母はいつものように、

「気をつけてね」

とだけ言った。

私は「うん」と笑って手を振る。

母を大切にできる夜が、少し増えた。

 


 

 



 

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