「腕時計を交換した夜」

二十三歳の私は、いつも奇妙に喉が渇いていた。
鞄の底には、コンビニエンスストアの無機質なロゴがついた栄養ドリンクと、パウチの美容ゼリー、それにチーズ味のカロリーメイトが、まるでなにかの防衛手段みたいに乱雑に放り込まれている。
豆を挽いて、お気に入りのカップにコーヒーを丁寧に淹れる。そんな、世界をやり過ごすための静かな時間すら、その頃の私には惜しかったのだ。
彼に出会ったのは、そんな乾ききった季節の真ん中だった。
私たちははじめから、言葉を交わす必要を感じていなかった。たぶん、お互いの輪郭が、あまりにも似すぎていたのだと思う。
鏡のなかの自分を見るような、ひりひりとした親密さ。だからこそ私たちは強烈に惹かれ合ったし、同時に、何かが決定的に壊れてしまうことを恐れていた。お互いに臆病で、プライドが高くて、一歩も動けずにいた。
「これ、かえっこしよう」
どちらからともなくそう言って、私たちは腕時計を交換した。私の手首には彼のごつごつした銀色の時計が、彼の細い手首には私の頼りない革ベルトの時計が、それぞれの皮膚の温度を吸い上げて、ちくたくと不器用に時を刻む。
大人たちから見れば、きっとひどく子供っぽくて、些細な秘密。
私たちは境界線のぎりぎりのところで、お互いの息の音を聴きながら、じっと踏みとどまっていた。
ある夜、部屋の明かりを消した暗闇のなかで、彼が静かに手を差し出した。
私はその、少し冷たい手のひらに、自分の頬をそっと寄せた。それはほとんど、降伏の合図のようなものだった。
やわらかな唇が、私の額に触れた。
それから、躊躇うように、頬に。
髪をかすめて、耳元に。
薄い皮膚の、まぶた。
まっすぐな鼻筋。
互いの鼻先が、何度も小さく触れ合っては、離れた。夜の果てで、私はもう、呼吸の仕方を忘れてしまっていた。
唇の端に、触れているのか、それともただの錯覚なのかわからないほどの、かすかな熱が落ちる。
つぎは、上唇。
ほんの少しの、せつない摩擦。
気が狂ってしまいそうだった。
欲しくて、欲しくて、仕方がなかった。彼のなかのすべてを、私のなかに流し込みたかった。
それでも、足りなかった。
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私たちは互いの腕時計という秘密だけを共有しつづけた。
手首の奥で、秒針がいよいよその歩みを遅らせていた。 永い眠りにつく直前の生きものが、名残惜しそうに睫毛を震わせるように、優しく、ひどく静かに。
あと数回、この針が文字盤を這えば、私たちの境界線は消える。
私は、まだそこにいた。
