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名を呼ばない道/一気読み 第一話〜第七話

それは、地図に載らない道である。
誰かが名を与える前からそこにあり、
呼ばれないまま、人の足だけを受け入れてきた。

境目に現れ、境目に消える。
社のない神社、磐座、言葉にならなかった音、
記録されないまま残った民間伝承——
それらが折り重なる場所に、この道はひらく。

これは人生における「道」を思索し、哲学する物語である。

第一話 紙の温度

 冷たくない。

 直人は手を止めた。研究室の蛍光灯は一定の明るさで、空調も、湿度も、数値も、問題ない。それなのに、机の上に広げられた古文書だけが、季節を外れているように感じられる。

 紙は黄ばんでいる。虫食いもある。特別に保存状態がいいわけではない。ただ、触れたときの温度が、いまの室温と噛み合っていないのだ。

 直人は、眼鏡を外すと古文書を引き寄せた。文字は読める。いや、解釈できると言った方が正しい。漢字に見えるが、意味を追おうとすると滑る。だが、音で読もうとすると、途端に日本語の気配が濃くなった。

 直人はしばらく古文書を見ていた。書き写すより先に、眺める時間が必要だ。

 ミテハナラヌ
 カヘリミチ、ココニアリ

 声に出さず口の中で転がす。助詞の位置が少し古く、語順もどこか柔らかい。大学で習ったどの文法とも、完全には一致しない。だが、意味はすっと入ってきた。

 無意識に腕時計を外す。こういうとき時間を見ると邪魔になることを、体はよく知っている。

 直人は、この古文書と生まれ故郷で出会った。今は住宅地となり、コンビニもあって、もう彼が知っている町はそこにはない。生活には不自由しないが、かつてそこにあったはずの感覚はなくなっている。

 古文書と同じ箱から、もう一枚折り畳まれた古地図が見つかった。名前のない小さな山と、線だけで描かれた社が描かれている。

 消えた社。地元の郷土史には、一行だけ記されている。

 由緒不詳。廃絶年代不明

 不明という言葉が、直人はあまり好きではなかった。わからないのではなく、語られなくなっただけのことが多いからだ。

 古文書の端には、字とも記号ともつかない、細い波を一筆で引いたような小さな朱書きがある。それを見た直人は、なぜか子どもの頃祖母に連れられて通った、細い坂道を思い出した。

 行きは下りで、帰りは上り。それだけの道なのに、帰り道だけやけに静かだった。

 「夕方だがらなぁ。」

 祖母はそう言った。でも、夕方にしては鳥の声がなかった。

 直人は、古文書から目を離すと窓の外を見た。キャンパスの木々が揺れている。学生たちが、時間割に応じ行き交っていた。世界はちゃんと進んでいる。それでも机の上の紙だけが、進む前の場所に留まっているようだった。

 再び古文書に視線を戻す。次の行を読む準備ができている自分に気づき、ほんの少しだけ笑った。

 急ぐ必要はない
 この古文書は
 待つことを知っている

第二話 次の一行

 古文書の右端にそっと指を置く。紙を押さえるというより、逃げないように触れている感じだ。次の一行は、少し文字が崩れていた。筆が急いだのか、それともここだけ別の手によるものなのか。直人は、行と行のあいだを丁寧に見ていった。

 古文書には、ときどき意味のない間がある。文字は書かれていないが、何かが置かれている場所だ。見ていくと、何度も同じところを撫でられたかのように、紙の繊維が少し毛羽立っているところがあった。直人は、喉の奥で短く息を吸う。

 ココハ、サカイ

 声に出さなくとも、音としてはっきりわかる。境。そう訳すのが自然だ。だが、境界線の境ではない。続く文字がそれを否定している。

 ヒトノアユミ、トマルモノナシ
 タダ、キエル

 直人はペンを取った。ノートの端に小さく書き留める。

 止まらない
 消える

 不吉にも、抽象的にも取れる言葉だが、この古文書は脅すために書かれたものではない。むしろ、説明しているように直人には思えた。

 直人は文字の並びを目で追いながら、自分の歩き方を思い出していた。子どもの頃から、いつも歩幅が一定だった。急ぐときも、遅れるときも、変わらない。呼吸も同じだ。早くも、遅くもならない。父に言われたことがある。

 「お前は、渡りきるのがうめぇな。」

 直人は古文書の下部に描かれた、小さな朱書きに意識を向けた。山のようにも、波のようにも見える線。往復はしていない。

 行きがあって
 帰りがない

 無意識に研究室のドアを見た。閉まっている。いつもと同じはずなのに、今日は少し遠く感じる。直人は、再び古文書に目を戻した。

 ヨルニハ、ナヲ、ヨブナ
 夜には、名を呼ぶな

 しばらくその一行を見つめる。時間帯の注意にしては妙だった。この古文書には、ほかに時を示す言葉がなく、季節も暦も出てこない。古文書としては不自然だ。

 その上、「夜」が時間を示すときの使われ方もしていない。ここに書かれている夜は、夜半でも、夜分でも、夜明けでもないのだ。まるで境目のように置かれている。直人は、指先で紙の端をなぞった。これは時間の話じゃない。

 次に、直人は「名」という言葉に引っかかりを感じた。人の名か。土地の名か。それとも・・・。眼鏡をかけ直す。視界が少しだけ締まる。古文書は問いかけてこない。答えを急がせもしない。ただ、

 順番を間違えるな

 そう言っているだけだ。今日はここまでだ。直人は体が促すまま、次の行に進むのをやめた。古文書を閉じるとき、紙がわずかに音を立てた。それは、乾いた音でも、湿った音でもなく、戸が静かに合う音に似ていた。

第三話 名のあるもの

 翌日、直人は古文書のその一行を、もう一度なぞった。

 ヨルニハ、ナヲ、ヨブナ
 夜には、名を呼ぶな

 命令に見える。だが、強制の響きはない。直人はひと呼吸おいてから、ノートにゆっくりと書きつけた。

 名とは何か?
 人の名、土地の名、神の名

 古い時代、夜も名も、日本では軽く扱われてこなかった。名は「呼び出すもの」で、呼べば応じる。応じれば、こちらも無事では済まされない。祖母は、夜に人の名を呼ぶことがなかった。用があっても、昼まで待つか、どうしても必要なときは、間接的な言い方をした。

 あっちの人
 向ごうの人
 奥の人

 古文書の「名」の文字が、他の文字よりわずかに濃く見える。筆圧がほんの少し強いのだ。ここだけ書き手が慎重になっている。直人は次の行を、ためらいつつも追うことにした。

 ナハ、モノヲ、トドム
 名は、ものを、留める

 留める。縛る。固定する。点がつながり始める。名を呼ぶことは、そこに「在れ」と命じることに近い。では、夜とは何か。夜とは境が緩む側。人と人でないものの区別が、薄くなる側。そこで名を呼ぶと、本来留まらないものまで留まってしまう。

 直人は、背もたれに体を預けた。椅子が小さく軋む。研究室の空気は変わらない。蛍光灯の白。本棚の影。それでもどこかで一段、深くなった気がした。

 自分の名を心の中で呼んでみる。反応はない。生まれた土地の名を思い浮かべてみる。胸の奥がわずかに重くなった。懐かしさではない。怖さでもない。触れてはいけない厚み。直人はノートにもう一行書き足した。

 名は、鍵であり、錨でもある

 古文書の下部に描かれた、あの一方通行の朱書きが頭に浮かぶ。行きがあって帰りがない。名を呼ぶことで、帰れなくなるものがある。それは「誰か」なのではなく、「状態」なのかもしれない。人が人でいられた状態。土地が土地として眠っていた状態。

 直人は古文書を閉じた。だが、閉じた古文書の向こうで、名を持たない何かが、まだ静かに息をしている気がした。

第四話 道は続いている

 帰り道。駅への道も、信号の位置も身体が覚えているはずなのに、いつの間にか舗装の色が変わり、靴底に伝わる感触が少しだけ柔らかい。気づくと、直人は川沿いを歩いていた。

 川は低い音を立てて流れている。水面は曇っていて、空を映さないかわりに、川岸の草の影だけを受け取っていた。

 突然、直人の足が止まった。地図に載るほどではない細い小道。誰かの近道か、もう使われなくなった通り道か。直人には、そこから先だけ、空気の密度が違って見えた。

 今、何時だろう? ふとそんなことが頭をよぎる。知らない道を探索するには、時間が遅いかもしれない。だが、時計を見れば「今」を数字に閉じ込めてしまう。直人はそのまま小道へと足を踏み出した。

 草は踏まれている。だが、最近の足跡ではない。長いあいだ、同じ幅で、同じ深さで通られてきた道。人の数ではなく、時間の層でできた道。小道は緩やかに曲がり、川の音が遠ざかっていく。

 不意に、背後で枝が鳴った。名を呼ばれる気がした。呼ばれれば振り向く。振り向けば立つ場所が決まってしまう。そんな焦りのようなものを感じて、直人の身体がほんのわずかに固まった。だが、名は呼ばれなかった。

 肩の力がゆるんだ。自分がここにいる理由は、はっきりしている。道が続いているからだ。先が見えないわけではない。だが、終わりも見えない。直人は、古文書の朱書きを思い出していた。行きと帰りの区別が、ここでは意味を持たない。

 しばらく歩くと、道は不意に終わった。いや、終わったのではない。広がったのだ。草が低く、地面がわずかに盛り上がっている。

 直人は、踏み入っていい場所と、そうでない場所の曖昧な境目を感じて、その手前で止まった。胸の奥に、何かが静かに戻ってくる感覚がある。ずっと前から知っているような気もするし、思い出そうとすると形を失うような気もする。

 今日は、ここまでだ。

 踵を返すと、川の音が近づいてきた。時間もまた動き出す。直人は、ここを見つけてしまったのだと感じた。そして、この道はまだどこかへと続いている。

第五話 呼んではいけない

 草の感触が靴底から消え、足音がいつもの硬さを取り戻したころ、陽はまだ山の端に引っかかっていた。完全には沈んでいないのに、空の色だけが夜へと移り始めている。

 いつの間にか、直人は足を止めていた。風はある。冷たくもない。だが、さっきまで聞こえていたはずの音が、ひとつ抜け落ちているように感じる。空気の密度だけが増していた。

 この感じだ、と身体が言う。昼でも夜でもない。どちらにも触れていないのに、境目だけが濃い。直人は無意識に息を数えた。歩幅を合わせるときの癖だ。古文書の一行がふっと頭に浮かぶ。

 夜には、名を呼ぶな

 文字の並びが、暗くならないままの空に重なった。名。呼ぶ。時間を区切るための合図。こちら側と、向こう側を分けるための、たった一語。

 直人は辺りを見回した。誰もいない。呼ぶ相手も、呼ばれるはずの存在も見当たらない。それでも、呼んではいけないと身体が言っていた。ここで名を持ち出した瞬間、この曖昧な時間が、どちらかに固定されてしまう気がした。昼でもなく、夜では早すぎる。言葉そのものが境界を揺らす。

 直人は一歩だけ足を前に出した。歩幅はいつもと同じだ。しかし、地面の感触は半拍遅れて返ってきた。

 渡っている
 だがどこを渡っているのかは
 わからない

 空はまだ明るい
 それでも夜はもう名を待っていた

 直人は何も言わない
 そのまま先へと歩を進める

 時間が層を成していることを
 彼の足だけが知っていた

第六話 祭りの日

  「・・・今日だったか。」

 祭りは毎年日付が同じだ。しかし、帰郷がその前日だったにもかかわらず、通りには提灯が下がっていた。昼の光の中で薄く影を落とす赤い紙が、風に揺れるたび、かすかな音を立てている。

 太鼓の音が、少し離れたところから聞こえていた。急くこともなく、かといって途切れることもない。地面の奥から脈打つように、規則正しく鳴り響いている。いつからか、直人は音と音の合間に歩みを合わせていた。

 歩くたびに足裏の感触がわずかに変わる。硬いはずのアスファルトの下から、ときどき土のような柔らかさが返ってきた。いにしえの土の硬さが、ところどころに混じるような感覚。時間の層を、そのまま踏んでいるような気がする。

 屋台が並び、人が集まっていた。懐かしい顔もあれば、初めて見る顔もある。声をかけられた気がして振り向くと、別の誰かが返事をしていた。人の流れの向こうへ目をやると、神輿が人垣の奥で揺れている。担ぎ手たちは、揃いの法被を着て神輿の周りに集まっていた。その背中に描かれた文字は、それぞれの役割を示すものだ。先導、道役・・・渡り手。

 直人は、その文字に視線を留めた。誰かが彼の横を通り過ぎながら言う。

 「今年は渡りが楽だな。」

 独り言のような調子だった。その言葉が、胸の奥に静かに残る。人の流れを眺めているうちに、その道筋が奇妙な形をしていることに気がついた。人々の進む道が、不自然な曲がり方をしているのだ。わざわざ遠回りをし、同じ場所を二度通っている。

 何か謂れでもあるのだろうか。行列は、まるで見えない線をなぞるように進んでいた。ふと、古文書の一文がよみがえる。

 名を呼ぶな
 呼べば、境はひらく

 この場で呼ばれているのは名ではなく、役割であり、所作であり、歩みそのものだ。神輿が今はない、かつて社があったはずの方向へと進んでいく。基壇も、鳥居も、もうない場所へ。草の生え方だけが少し違う場所へ。

 太鼓が一拍だけ間を外した。風が止む。その途端、ここに来たのではない、戻ってきたのだという感覚が、直人の中に静かに広がった。舗装の下に残る古い土の硬さ。さっき見た道の巡り方。古文書の言葉。自分は名ではなく、時間の層を辿って歩いているのかもしれない。

 神輿は進み、太鼓はまた一定の拍に戻る。祭りはまだ終わらない。そして、この町もまだすべてを語ってはいない。

第七話 いつかどこかで

 直人は屋台の並ぶ通りを抜けた。灯りが揺れ、人の声が重なり合う。そのざわめきの向こうで太鼓だけが細く続き、影が少し遅れてついてきた。

 遠くで鳴っていた太鼓の調子が、少しだけ変わる。さっきまで続いていた打ち方が、どこかで一度ほどけたように、音と音のあいだに細い隙間が生まれていた。気づくと、人の流れがいつの間にか左右へ寄っている。直人の前だけがぽっかりと空き、その間に低く刈られた草地が見える。まるで道だけが残っているかのようだ。

 直人はその道を歩き続けた。足取りはいつもと変わらない。正面から聞こえていたはずの太鼓の音が、いつの間にか背中に回っていた。遠くで、祭りはまだ続いている。周りに人はいない。声もない。その気配だけがゆっくりと揺れていた。

 草を踏む感触は一定だった。柔らかすぎず、固すぎない。刈られた草の下で、地面が静かに重みを受け止めている。足裏は地面の厚みを確かめるように動いた。踏むたびに同じ感触が返ってくる。わずかな湿り気と、乾いた草の擦れる音。歩幅は自然に整い、足は迷うことなく前に出る。

 ここを知っている気がした。来たことがあるわけではない。だが、歩いたことがある。それは場所の記憶ではない。足が覚えている道だった。

 いつか
 どこかで

 ふと、言葉が浮かびかけた。この場所を、何かの名で呼んでしまいそうになる。直人は唇を固く閉じた。声にすれば、この道はただの道になる。名を与えた瞬間、ここに立つ理由がひとつに決まってしまう。胸の奥で形になりかけた言葉が、そのままほどけていった。

 足元の影が、ふっと薄くなった。そこには月の明るさに似た、淡い光が落ちていた。直人は思わず空を見上げた。空が高くひらけている。星のような光が、いくつも浮かんでいる気がした。数えきれないほどあるのに、どれも名を持たないまま静かに瞬いている。

 直人は、ほんの一瞬歩みを緩めた。そのとき、背後の太鼓がぴたりと止んだように思えた。音が消えたのではない。直人が祭りの側に戻ったのだ。

 振り返ると、そこにあったはずの道は、ただの草地になっていた。空には、さっきまでと同じ昼の明るさが残っている。太陽は、まだ沈みかけてもいなかった。

 直人はしばらくその草地を見ていた。やがて視線を外すと、前を向いて歩き出した。



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