名を呼ばない道/第二十一話 印を移す
それは、地図に載らない道である。
誰かが名を与える前からそこにあり、
呼ばれないまま、人の足だけを受け入れてきた。
境目に現れ、境目に消える。
社のない神社、磐座、言葉にならなかった音、
記録されないまま残った民間伝承——
それらが折り重なる場所に、この道はひらく。
これは人生における「道」を思索し、哲学する物語である。
直人は、そこにあったはずのものを確かめるようにしばらくその空き地を眺め、やがて背を向けた。振り返ると、境界標の石が雑草のあいだに小さく見える。夕方の光が石の角をかすめていた。あの人の言葉が脳裏をよぎる。
「この町はね、線がよく動くんだ。」
半年ほど前のこと。大学の図書館で未調査の古文書が何冊か発見され、その中に直人の故郷を出所とする一冊があった。町外れの古い民家の蔵から見つかった古文書だ。その家はすでになく、跡地は静かな空き地になっていた。
直人は、研究の手がかりがあればと、故郷の資料館に立ち寄った。空が低く垂れこめた雨の日だった。資料館は人が少なく、湿った匂いが残っていた。

直人が、展示室の奥で古い河川図を眺めていると、
「その線、気になるかい?」
後ろから声をかけられた。振り向くと資料館の館長が立っている。年のころは、六十代半ばだろうか。彼は、古地図に描かれた川筋を指先でとんと叩きながら、
「この町はね、線がよく動くんだ。」
と悪戯っぽく微笑みながら言った。きっと古地図が好きな人なのだろうと、直人は曖昧に笑った。
「君の家の名はね・・・ほら、ここにある。」
館長は古地図の隣に置かれた別の図面を指した。土地の区切りを細かく描いた地籍図だ。地番の横に、直人と同じ苗字が小さく書かれている。初対面の彼が、なぜ自分を知っているのか。直人は驚いて顔を上げ、館長を見返した。
「君に見せたいものがある。ちょっと待っててくれるかな。 」
館長は、柔和な笑顔で穏やかにそう言うと、倉庫の奥から布紐で綴じられた和綴じを持ってきた。紙は薄茶に変色し、虫食いの穴がいくつもある。
「写しなんだけれどね。」
そう言いながら、館長は表紙を開いてみせた。墨の文字は達筆ではない。整ってはいるが、実務記録のようなものだろう。川沿いの地所が順に書き連ねられていて、「橋ノ下」「川端」といった記しの横に、地番が並んでいる。
その一つの余白に、小さな家の形をした印が添えられていた。印のすぐ下に、本文とは異なる細い文字が書き添えられている。
印を移すは 境の定まりの後
これはなんだろう。実務記録には似つかわしくない、随分と抽象的な言葉だ。直人は視線を上げて聞いた。
「これは、どういう意味ですか?」
館長はわずかに笑いながら、首を横に振った。
「正直なところ、私にもはっきりしたことはわからないんだ。いま祭りで、“渡り手”と呼ばれている人がいるだろう? あれは役目の名だ。でもね、昔は家そのものをそう呼ぶことがあったらしい。この家の形をした印も、その類いかもしれないね。確かなことは言えないがね。」
館長は肩をすくめると、少し間を置いてから言った。
「君のお父さんとは、何度か話したことがあるんだよ。」
直人の喉が、わずかに動いた。
「君のことは、葬儀で見かけて知っていた。お父さんは、あの地積図とこの記録に興味を持っていてね。自分の家の名が、いつからそこにあるのかを、確かめようとしていたんじゃないかな。それで、君に声をかけたんだよ。」
直人は、父が見ていた線の先を、自分の目で確かめたくなり、その翌日に戸籍を取り寄せたのだった。父は何を見て、どこまで知っていたのだろう。もう一度、あの人に会いに行こう。
気づくと、いつの間にか商店街を抜け、旅館の屋根が夕闇の中に浮かんでいた。

