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名を呼ばない道/一気読み 第十五話〜第二十話

それは、地図に載らない道である。
誰かが名を与える前からそこにあり、
呼ばれないまま、人の足だけを受け入れてきた。

境目に現れ、境目に消える。
社のない神社、磐座、言葉にならなかった音、
記録されないまま残った民間伝承——
それらが折り重なる場所に、この道はひらく。

これは人生における「道」を思索し、哲学する物語である。

第十五話 呼ばれかけた名

 直人は、夕闇の町を足の向くままに歩いていた。歩道と車道の縁石、古い石垣と新しいコンクリートの継ぎ目、軒先の影と通りの光の境、どれも境目だ。

 境目は裂け目ではない。ただ異なるものが触れ合う場所だ。そこだけ、わずかに空気の密度が変わる。気づけば、直人はそういう場所ばかりを歩いていた。

 商店街の手前に、昔、橋だった場所がある。今は暗渠で水は見えない。通りかかると空気が少し冷たかった。

 「・・・なお、と・・・」

 背後から声がした。呼ばれたと思ったが、違うようだ。振り返ると、小学生くらいの男の子が地面にしゃがみ込んでいる。虫か、石か、何かを探しているように見える。

  「なお、と・・・ここ?」

 男の子の独り言だ。何かの暗示だろうか。直人は、ただの偶然に意味を見てしまう自分に苦笑いしつつ通り過ぎると、商店街の中へと入っていった。

 商店街を抜けた先にある掲示板には、祭りの案内がまだ貼られたままになっていた。雨に濡れ、角がめくれ、公式の日付や主催者名はもう読めない。掲示板を通り過ぎるとき、手書きの小さな文字が、紙の端に書かれているのがちらりと見えた。鉛筆で何か書き足されている。直人は立ち止まりその文字に目を留めた。

 渡り手は
 名を持つ者
 名を使わぬ者

 直人はその三行を、もう一度、目でなぞった。紙は湿っている。だが、鉛筆の線だけは新しい。いつ書かれたのか。誰が書いたのか。昨日の祭りの最中か。それとも、もっと前からそこにあったのか。通りを歩く人は、誰も足を止めない。風が紙の端をかすかに揺らす。

 名を持つ者。
 名を使わぬ者。

 矛盾したその並びに、直人はわずかな引っかかりを覚えた。公園での録音。録音に入らなかった気配。転籍届のない本籍地の移動。点ではない。線でもない。どこかで円を描いているように思える。

 直人はその足で宿に戻ると、ノートを開いた。さっき商店街で聞いた男の子の独り言が、まだ耳の奥に残っている。

 名を持つ者。
 名を使わぬ者。

 直人はしばらくペンを止めたまま考えた。もし名がただの呼び名なら、使わないということは、持たないことと同じはずだ。だが・・・。

 公園での録音。録音に入らなかった気配。
 戸籍の移動。転籍届のない本籍地の移動。

 起きているのに、記録に触れないものがある。呼ばれた瞬間に現れるのではなく、その前から、どこか別の位置にあるようなもの。直人はペンを動かした。

 名は
 呼ばれる前に
 ずれる

 直人は書いたばかりの三行をしばらく眺めていた。意味はまだうまく掴めていないが、その三行が指している何かに、確かに触れかけている感覚があった。

 ペンを置くと、耳に意識が向いた。宿の外は静かだ。ただ、いつもの静けさとはどこか違っている。音は聞こえない。それでも、昨日のように沈んだ静寂というわけでもない。沈黙の底で、何かが動き出すのを待つような静けさがあった。

 直人は目を閉じた。向こう側で、誰かが一度足を止めている気配がする。まだ渡ろうとしているわけではない。ただ、そこに立ち、渡ることが許されるのかどうかを、静かに測っているようだ。

 一定の呼吸を保つ。身体の拍だけを崩さずにいたかった。言葉にすれば説明になる。説明になれば形が決まる。いまはまだ、そのどれにも触れたくなかった。

  夜は深くなる
  だがまだ越えてはいない

第十六話 書いた手

 その夜、直人はなかなか寝つけなかった。部屋の灯りを落としても、掲示板の三行が瞼の裏に残っている。渡り手は、名を持つ者、名を使わぬ者。時計の針がひと目盛り進む。

 外が静まりきったころ、直人はおもむろに立ち上がった。もう一度、確かめたい。真夜中の旅館の廊下は長かった。照明は低く沈むように暗く、足音は床板にやわらかく吸われていく。壁に貼られた避難経路図だけがやけに鮮明だった。

 玄関の引き戸を引くと、夜風があの紙の匂いを運んでくる気がした。旅館の前の通りをゆっくり歩く。昼間は車の音で満ちていた道が、いまは広く平らだ。信号は点滅に変わり、影だけが動いている。店舗前に積まれていた段ボールは片づけられ、シャッターの影だけが道に伸びていた。明るいときには気づかなかった細い路地が、夜になるとかえって輪郭を持つ。昼は人が道を決める。夜は、道のほうが残る。

 商店街を抜けるとあの掲示板が見えてきた。その前に人が立っているのが見える。こちらに向いた背中は弦を張った弓のようで、妙に姿勢がいい。年齢も性別も判別がつかないその人は、掲示板に向かい何かをしているように見えた。

 直人は、掲示板の五歩ほど手前で足を止めた。直人が近づいても、その人は足元に落ちた影の最も濃い中心のように、少しもぶれなかった。

 夜の空気がわずかに緩んだとき、その人が一歩横にずれた。夕方見た紙の端が目に飛び込んでくる。細い線が一本増えていた。文字ではない。図でもない。往復しない線。直人は息を止めた。古文書の下部に描かれていた、あの線と同じだ。

 「それ、あなたが書いたんですか?」

 思ったより低くかすれた声が出た。その人は背を向けたまま、静かに答える。

 「書いだどは言わねよ。」

 若くも老いてもいない、男とも女とも区別がつかない声が言う。

 「ただ通しだだけ。」

 直人は足を一歩前に出した。相手の肩がわずかに揺れる。それは身を引く動きではなく、息を吸い直すときの小さな揺れだった。

 「どうして・・・」

 直人は言葉を探した。どうしてこの人は、あの線のことを知っているのか。

 「あなたは・・・」

 何をしている人なのか。どこの誰なのか。一体何者なのか。その人は、直人の言葉を遮るように、少しだけ視線を上げて言った。

 「名は、重いよ。呼ばれっと止まる。止まっと次が渡れね。」

 直人はノートを思い出していた。

 名は 位置である

 掲示板に向いていたその人の横顔が、ゆっくりと角度を変え、直人を捉えた。顔ははっきりと見えているのに、年齢も性別もわからない。輪郭のやわらかな顔立ちだった。

 「もう知ってるべ。」

 問い詰めるでもなく、教えようとするでもない心地よい静かな声が、直人の耳に触れる。

 「だから、聞がねほうがいい。」

 しばしの沈黙ののち、その人の重心がわずかに移った。体の向きが夜の通りへとほどけていく。気づいたときには、その人はもういなかった。音も、影も、残らない。

 直人は掲示板の前に立った。紙の端に、もう一行増えている。

 名を知るな
 知れば、使う

 目を閉じると、町の下で川の音がした。見えないはずの水が確かに流れている。音は遠い。だが、地面の奥からゆっくりと滲み伝わってくる。直人は、しばらくそのまま耳を澄ませていた。

 やがて目を開けると、紙の端だけが夜風にかすかに揺れている。商店街へと引き返す。足音がアーケードの天井に吸われていく。点滅している信号機の下を通り、旅館の明かりが見えるころには、胸の中のざわめきも静まっていた。

第十七話 残らない音

 翌朝、食堂の客が直人ひとりだったからか、女将が湯気の立つ味噌汁を置きながら声をかけてきた。

 「昨日は遅がったですねぇ。」

 水面に小石を置くような声に、直人は頷きながら静かに答えた。

 「町を歩いていました。」

 女将はにこやかに頷くと、ふと思い出したように言う。

 「そうそう。昨夜、廊下で音しませんでしたが?」

 直人は箸を止め、顔を上げた。

 「音、ですか?」

 「ええ。なんて言えばいいがねぇ。乾いた感じの音でね。録音された音みたいな。」

 直人は、手元の箸先を見つめた。女将の言った「録音」という言葉が、公園での感触を静かに呼び起こす。風の音しか残らなかった録音の記録。あのとき確かに感じたものが、そこには入っていなかった。

 女将の「乾いた」という言い方が、妙に引っかかる。乾いた音というのは、物が触れて鳴るときの言葉だ。だが公園で感じたものは、何かが鳴ったのではなく、音のあいだに置かれた気配だった。

 「それがね、不思議で。音のする方さ近づいてみると、何も聞こえねんですよ。少し離れてるときのほうが、はっきりするっていうが。」

 直人の胸の奥で、何かが静かに揃った。録音には残らなかったあの気配、間のようなもの。女将が聞いた近づくと消える音。どちらも、掴もうとした瞬間に形を失う。そして、それは自分の中だけで起きていることではないのだ。

 「どんな音でした?」

 直人は、言葉が先に出すぎないように、いったん息を整えてから口を開いた。女将は首をかすかに傾けたまま、探るように答える。

 「・・・川ですがねぇ。それとも、風ですがねぇ」

 しかし、即座に首を振りながら、

 「違いますねぇ。音っていうより・・・鳴りそうで鳴らね感じというが、鳴ったあとに残る静かな感じというが・・・。」

 女将は小さく笑った。

 「うまぐ言えませんねぇ。聞いだごどのね音というが、感覚で。私の勘違いだったんですがねぇ。」

 それほど気にしているようには見えなかった。聞かなかったことにするでもなく、通り過ぎる風をそのままやり過ごしているような、さりげない口調だった。

 直人は食事を終えると部屋に戻った。録音機を手に取る。再生はしない。代わりにノートを開いた。

 音は、聞いた者の中にだけ
 何かを残すのかもしれない。

第十八話 内と外のあいだ

 夜の帳場は灯りが沈み、空気が水底のように静かだ。客足が引いた今、帳場の横にある丸テーブルの囲炉裏には火がない。直人は部屋へ戻る前に、そこでひと息つくことにした。

 「ここで休まれますがね。」

 直人が軽く頷くと、女将はお茶を淹れに、帳場の奥へと姿を消した。ここは、出入り口でも居間でもない。客が部屋へ上がる前に、いったん足を留めるための間だ。宿の内と外、そのあいだに残された余白。

 やがて、帳場の奥から女将が戻ってきた。盆の上に置かれた湯呑みから、湯気がやわらかく立ちのぼっている。

 「夜は冷えますがらねぇ。」

 そう言って湯呑みを差し出すとき、女将がほんの一瞬だけ手を止めた。それから直人の正面ではなく、ほんのわずか横へずらして湯呑みを置いた。卓の角、手を伸ばせば届くところ。差し出すでも受け取るでもない、互いの視線がまっすぐに重ならない位置だった。

 湯呑みの縁には、一筋の金継ぎが施されていた。釉薬の色は一様ではなく、淡い部分と深い部分が灯りの加減で入れ替わる。

 女将は帳場に戻ると、開いていた帳面を静かに閉じた。上の面を手のひらでそっと支えながら、最後に一拍置いて優しく重ねる。紙が傷まないための所作だ。しかし、その一拍が、直人には切り離されたように浮いて見えた。閉じきらず、いったん止める。間を置いてから、重ねる。それは、音を消すのではなく、和らげるやり方だった。

 「この宿は・・・」

 女将は、木の硬さを味わうように柱に掌を当てると、静かに語り出した。

 「壁どが、屋根どがねぇ。何度も建て替えてきて、間取りもずいぶん変わったんですよ。でもねぇ、この柱ど土台だけは、最初のままなんです。うちの祖父がね、よぐ言ってたんですよ。この柱は“移すな”ってね。」

 女将は柱を軽く叩いた。乾いた澄んだ音が返る。

 「昔、ここは宿じゃなかったそうなんですよ。ただの休み処でねぇ。川を越える人たちが、一息つく場所だったんだそうで。」

 暗渠になる前の川のことだろう。地図にはもう載らない流れだが、足取りだけは消えていない。直人は、土手に立つ風の匂いを想像した。水の音が絶えず続き、その手前で人の足音がいったん緩む。渡る前の、ほんの短い間。この場所は、その"間"を受け止めてきたのかもしれない。

 「橋を渡る前に、ここでお茶飲んで、荷ぃ整えて。それがら向こう岸さ渡ったんだそうですよ。」

 女将は柱から手を離すと、話を続けた。

 「川幅はねぇ、それほど広ぐはなかったんですけどねぇ。でも、向こう側は町の外れで、山さ分け入る人もいれば、その山越えて商いさ出る人もいて。この町さ戻らね者も、少なぐなかったそうなんですよ。
 祖父はねぇ、“橋は短いが、越えるものは長ぇんだ”って、よぐ言ってました。川越えるっていうより、町での日常を越える前の支度というが、気持ぢ整えるっていうのがねぇ。ここで一度、息整えるんだって。」

 女将は、柱を見上げながら話を続けた。

 「祖父はねぇ、この柱だけは動がすな、ここがずれると道がずれるがら、って言ってたんですよ。若い頃は意味がわがらなくてねぇ。柱一本で何が変わるんだろうって。
 でもねぇ、長ぐここに立ってると、なんとなぐわがる気もするんです。人の流れって、不思議でしょう。ほんの少し入口が変わるだけで、通る人の足取りも変わる。置ぐ家具ひとつ動がすだけで、座る位置も変わるんでしょう?」

 女将は、帳場の縁に手を置いた。

 「だがらねぇ、ずらさねんですよ。ずらさなければ、余計なごどは起きね。そういうごどなのがなってねぇ。」

 そう言い、女将は足元に視線を落とした。まるで、床板の下に重ねられてきた時間を眺めているように見える。

 二人のあいだに音のない時間が流れたのち、女将は帳場を出ようと体の向きを変えた。出入り口にある低い段差の手前で、一旦足を止める。そして、次の呼吸とともに、その段差を静かに踏み越えた。それはまるで、無意識の儀式のようだった。

 「ここを越えるとねぇ、音が変わるんですよ。」

 女将はそう言いながら、廊下の奥行きに目を向けた。確かに宿の奥は静かだった。音がないのではない。響き方が違う。思考の中で、古文書の一行がゆっくりと浮かび上がる。

 渡る者は、名を持たず、声を持たず

 女将は、灯りをひとつ落とした。その瞬間、空気がすっと切り替わった。

第十九話 父の言葉

 町外れの住宅地は、夕方になると急に静かになる。暗渠を越え、商店街を抜けて坂を上がると、建て売りの家が並ぶ一角に出る。妹夫婦の家は、その奥から二軒目だ。

 インターホンを押すと、母が出た。

 「帰ってきてたの。泊まるなら言えばよがったのに。」

 直人は笑った。

 「仕事のついでだよ。旅館にいる。」

 「あらま、そうなのかい。」

 母はそれだけ言うと、台所へと踵を返した。鍋の火加減が気になるらしい。母はここで、妹夫婦と暮らしている。二人とも昼間は仕事で家にはいない。

 「実家、取り壊して正解だったのよ。あのままじゃ古ぐて危ねがったもの。」

 母は、すっきりとした笑顔を直人に向けた。未練は少しもないようだ。

 「こっちはどう? 慣れた?」

 直人が聞くと、母は小さく肩をすくめた。

 「まあね。あの子は昼間いねし、静かなもんだよ。今は捨てられずに持ってきた物を、あの子に相談しながら片づげでるところ。お父さんの物もね、ずいぶん処分してこっちさ来たんだけど。そこにあるのだけがねぇ。」

 と、居間の片隅に置いてある古い段ボールを指差した。

 「父ちゃん、大事にしてたがらねぇ。」

 段ボールの中には、町の名前が刷られた冊子や、号外らしき紙束が、きちんと揃えて詰められている。

 「これを父ちゃんが?」

 直人が言うと、母は小さく笑った。

 「父ちゃん、町内会の役を長ぐやってたがら。広報も記念誌も、みんな取っておく人だったんだよ。」

 「全部?」

 「捨てるど怒るんだもの。“いつか役に立つ”って。」

 直人は段ボールの脇に腰を下ろし、冊子を一冊ずつ取り出した。紙は黄ばんでいるが、折り目はきちんと揃っている。父が何度も開いた跡が、角にうっすらと残っていた。

 直人は「新橋完成」と大きく刷られた号外を開いた。白黒写真の中で、人々が橋の上に並んでいるのが見える。

 「ああ、それ。すごいでしょ。じいちゃんも残しておく人だったがら。でも、それはもっと古いのよねぇ。」

 母は急須に湯を注ぎながら言う。

 「じいちゃんがね、橋ができたときは町じゅうお祭りみてぇだったって、自分の父親がらよぐ聞かされたって言ってたんだよ。」

 直人は「明治三十四年 新橋完成」の文字を見た。明治の三十年代・・・最近どこかで見た気がする。段ボールの脇に置いた鞄からスマートフォンを取り出し、保存してある戸籍抄本の画像を開く。本籍移動の欄にある年は・・・明治三十五年。橋完成の翌年だ。偶然だろうか。

 新橋完成の号外を開いたまま、段ボールの中を探ると、表紙に「河川改修計画」とある薄い冊子を見つけた。どのページにも堤防の断面図や工事区間の地図が並んでいて、細かい数字と専門用語が続いている。ページをめくり、見出しを拾うように目を走らせる。やがて、太字で印刷された一行に目が留まった。

 〈昭和四十二年 暗渠完成〉

 即座にスマホを手に取り、戸籍の記録を確認する。本籍の移動は・・・昭和四十四年。完成の二年後だ。胸の奥が静かに熱を帯びてくる。

 さらに段ボールをかき分け、町村合併記念号を見つけ出した。確かめたいという衝動が、先に手を動かす。ページをめくる。町村合併施行・・・平成三年。本籍の移動は平成四年だ。偶然とは思えない。いずれも、本籍が移されたのは、その翌年か、二年後だ。

 直人は顔を上げると、母に話しかけた。

 「うち、本籍を三回も動かしているんだよ。橋完成の翌年、暗渠完成の二年後、町村合併の翌年にね。母ちゃん、知ってた?」

 母は、呆れたような顔をして

 「橋の完成って、その号外のことかい?それって、じいちゃんの父親の代の話でねぇの。そんな昔のこと聞がれてもねぇ。」

 と、笑った。それからふと思い出したように、声を落として言う。

 「そういえばね、父ちゃんと結婚しだとき、うちの本籍地ってあの家じゃながったのよ。父ちゃんは“昔がらここなんだ”って言ってだねぇ。
 それで、直人が小学生の頃だったがな。父ちゃん、本籍をそごがら別の住所に移したんだよね。“その方がいいがら”って。同じ市内で手続きが面倒になることもないがら、父ちゃんのしたいようにすればいいって言ったのよ。」

 直人は冊子に目を落としたまま、ふと祖父の声を思い出した。

 大きなことのあとが肝心なんだ。

 何の話だったかは覚えていないが、父も似たようなことを言っていた。

 「騒ぎの最中はな、誰でも同じ方さ見るもんだ。終わってがらなんだよ。ずれが出るのは。」

 橋完成の翌年。暗渠完成の二年後。町村合併の翌年。いずれも出来事が終わり、人の気配の残響や出来事の余波が、ようやく静まり、形を取りはじめたころに本籍が移動している。偶然と言える範疇を少しだけ越えていると、直人は思った。

 直人は、冊子を段ボールに戻した。

 「ありがとう。もう帰るよ。」

 直人が玄関へ向かうと、母は台所へ戻り、流しに置いた湯呑みを洗い始めた。

 「気ぃつけて帰りなさいね。」

 玄関のドアが閉まるとき、台所から一際大きな声が響いてきた。

 帰り道、直人は暗渠の上で立ち止まった。水は見えない。だが、かつてここが川だったことは消えていない。見えない流れが、今もどこかで続いている。調べるべきことは、まだある。直人は、確かな手応えを胸に歩き出した。

第二十話 消えた線のそば

 直人は図書館の郷土資料室にいた。薄いカーテン越しの光が、閲覧机の上に落ちている。古地図は思っていたよりも大きく、折り目のところが白く擦れていた。

 明治の地図は、和紙に墨で引かれた細い線だった。川は太く描かれ、濃淡のついた波線が町の北側に沿ってゆるやかに流れている。町側には家々の四角がびっしりと並び、山側は白い余白が広い。

 橋はまだ描かれていなかった。代わりに、川幅が少し狭まる地点に、小さな「渡」の文字と、砂地を示す斜線がある。そこだけ道が川へ向かっており、川岸にぽつんと余白が残されていた。ここは人が立ち止まる場所だ、と直人は思った。

 次に、橋完成後の地図を広げる。川を横切る太い直線が引かれ、橋の両端から道が伸びている。商店らしき小さな四角が、橋の町側に増えていた。渡し場の余白は消え、代わりに橋の袂が小さな広場のように描かれている。本籍が置かれたのは、その袂から三軒ほど内側に入った位置だった。

 昭和の暗渠完成前の地図では、青く塗られた川の線に赤い破線が重なっている。「改修計画」と横書きで記され、川の蛇行が直線に引き直されていた。暗渠の入口は四角く囲まれ、その上に道路予定線が太く引かれている。

 暗渠完成後の地図に青色の川はない。代わりに灰色の直線道路が町を貫いていた。直人は戸籍の写しに目を落とし、記された住所を地図の上で探した。指先が、暗渠の始まりにあたる交差点で止まる。移された本籍地はそのすぐそばだった。

 最後に、平成初期の区域図を見る。外周には、太い実線で新しい市境が引かれていた。その内側に、旧町村を分けていた破線がうっすらと引かれているが、宅地の区画線に紛れ、ほとんど見分けがつかない。父が移した本籍地は、その旧町境の通り沿いにあった。区画整理で四角く区切られた住宅地の一角だ。

 直人は地図を閉じた。橋完成、暗渠化、町村合併。三つの出来事を、順に思い浮かべる。橋完成の翌年、本籍は橋の袂に近い通りへと移されていた。橋が町に定着し、人の流れが落ち着いたあとのことだ。

 その後、暗渠化で川岸は消えた。かつて水が流れていた場所は、舗装され道路となる。その暗渠が完成した二年後、本籍は暗渠の始まりにあたる交差点そばに移されていた。そこが完全に道路として町に馴染んだ頃のことだ。

 町村合併で町境は地図から消えた。町境の線は、区画整理でまっすぐな道路に引き直され、いまは住宅地の交差点になっている。この町村合併の翌年、本籍は旧町境の一角へと移されていた。町の人が新しい市名を当たり前のように使うようになった頃だ。

 橋の袂、暗渠の始まりにあたる交差点、区画の一角。いずれも人が立ち止まり、方向を変える位置のように思える。

 図書館を出ると、夕方の光が町を柔らかく包んでいた。直人はその足で、明治時代に移された本籍地へと向かった。そこはかつての橋の袂から一本入った通りにある。直人はその場所で足を止めた。今は小さな整骨院と駐車場になっていた。

 続いて、昭和四十四年に移された本籍地へと向かう。暗渠の始まりにあたる交差点のそばだ。川が地上から地下へと切り替わるその入口は、信号のない小さな交差点だった。

 最後に、現在の本籍地へと向かった。平成四年に移された本籍地だ。それは旧町境の端、区画整理で引き直された道路の交差点から、数メートル離れたところにあった。雑草が伸び、境界標の石だけが残っている。

 橋の袂の脇。暗渠の始まりの交差点。旧町境の通りの隅。どれも、何かが切り替わる場所だ。

 境界は閉じたのではない。
 消えたのでもない。

 橋が架かり、川が地下に入り、町の名が変わり、線が引き直される。その引き直された線のそばに、本籍が移された。住むためでも、商うためでもない。記録だけが残されている。

 なにか特別な役目があったと決めるには、まだ材料が足りない。だが、時代が大きく切り替わった場のそばに、家の名が置かれてきたことは事実だ。なぜ、出来事の年ではないのだろう。工事が終わり、人々が新しい道に慣れ始めた頃。なぜその時を選んだのだろう。

 直人は、境界標の石を見た。石は何も語らず、地図の余白を押さえる重しのように、そこに置かれていた。

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