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名を呼ばない道/第一話 紙の温度

それは、地図に載らない道である。
誰かが名を与える前からそこにあり、
呼ばれないまま、人の足だけを受け入れてきた。

境目に現れ、境目に消える。
社のない神社、磐座、言葉にならなかった音、
記録されないまま残った民間伝承——
それらが折り重なる場所に、この道はひらく。

これは人生における「道」を思索し、哲学する物語である。

 冷たくない。

 直人は手を止めた。研究室の蛍光灯は一定の明るさで、空調も、湿度も、数値も、問題ない。それなのに、机の上に広げられた古文書だけが、季節を外れているように感じられる。

 紙は黄ばんでいる。虫食いもある。特別に保存状態がいいわけではない。ただ、触れたときの温度が、いまの室温と噛み合っていないのだ。

 直人は、眼鏡を外すと古文書を引き寄せた。文字は読める。いや、解釈できると言った方が正しい。漢字に見えるが、意味を追おうとすると滑る。だが、音で読もうとすると、途端に日本語の気配が濃くなった。

 直人はしばらく古文書を見ていた。書き写すより先に、眺める時間が必要だ。

 ミテハナラヌ
 カヘリミチ、ココニアリ

 声に出さず口の中で転がす。助詞の位置が少し古く、語順もどこか柔らかい。大学で習ったどの文法とも、完全には一致しない。だが、意味はすっと入ってきた。

 無意識に腕時計を外す。こういうとき時間を見ると邪魔になることを、体はよく知っている。

 直人は、この古文書と生まれ故郷で出会った。今は住宅地となり、コンビニもあって、もう彼が知っている町はそこにはない。生活には不自由しないが、かつてそこにあったはずの感覚はなくなっている。

 古文書と同じ箱から、もう一枚折り畳まれた古地図が見つかった。名前のない小さな山と、線だけで描かれた社が描かれている。

 消えた社。地元の郷土史には、一行だけ記されている。

 由緒不詳。廃絶年代不明

 不明という言葉が、直人はあまり好きではなかった。わからないのではなく、語られなくなっただけのことが多いからだ。

 古文書の端には、字とも記号ともつかない、細い波を一筆で引いたような小さな朱書きがある。それを見た直人は、なぜか子どもの頃祖母に連れられて通った、細い坂道を思い出した。

 行きは下りで、帰りは上り。それだけの道なのに、帰り道だけ、やけに静かだった。

 「夕方だがらなぁ。」

 祖母はそう言った。でも、夕方にしては鳥の声がなかった。

 直人は、古文書から目を離すと窓の外を見た。キャンパスの木々が揺れている。学生たちが、時間割に応じ行き交っていた。世界はちゃんと進んでいる。それでも机の上の紙だけが、進む前の場所に留まっているようだった。

 再び古文書に視線を戻す。次の行を読む準備ができている自分に気づき、ほんの少しだけ笑った。

 急ぐ必要はない
 この古文書は
 待つことを知っている

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